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礼拝メッセージより
「誰かのために」 2007年11月25日
聖書:マタイによる福音書 5章13-16節
汗
高校に入ってからサッカー部に入った。全然まじめな部員じゃなくて、よくさぼっていたけれど、練習に参加する時には汗だくになってやっていた。今はスポーツをするときには水分を補給しながらやるというのが当たり前になっているけれど、当時は水分を取るとそれだけ汗をかいてしまって、汗をかくとそれだけ疲れる、とか何とか言われていて練習中に水分を取るなんてことはなかった。
夏休み明けてすぐのまだ暑い頃だったと思うけれど、ある日やけに頭痛がするので学校を休んで病院に行った。そうしたら医者から、塩分が足りないと言われた。そんなこと言われたのは後にも先にもあの一回だけだった。塩分は身体に必要なんだってことを実感した。
塩
あなたがたは地の塩である、なんて言う。塩というと真っ先に思いつくのは料理に使う塩だ。塩がないとすると料理はどうなるのか、あまり詳しくはわからないけれど料理は成り立つんだろうか。塩気のないにぎりめしはあまりうまくないというように、塩気のない料理はおいしくないんだろうと思う。だから塩は料理には欠かせない物なんだろうと思う。でも塩だけを食べることはほとんどない。他の材料をおいしくするために使うものだ。そして少しの量で多くの材料をおいしくしてしまう。
あるいはまた塩は物を腐らなくさせる力もある。塩漬けにしておくと長く持たせることができる。
「だが塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と続く。
今の塩に塩気がなくなるなんてことはあまり考えられない。現代の食塩は塩化ナトリウム99.4%?。しかし当時の塩は死海沿岸やシリアの荒れ地で取れる不純物を含む岩塩のことである。岩塩には不純物が多く、空気中の湿気によって融けてしまって使い物にならなくなったりしていたそうだ。そうなるとイエスがいうように役に立たなくなり捨てられるだけだったようだ。
塩気がなくなると役に立たなくなってしまうけれども、あなたがたは大切な大事な地の塩だというのだ。地の塩になれでもなく、なるだろうでもなく、地の塩であると言い切っている。あなたがたはこの地上での大切な塩なのだ、と言うのだ。
光
続いてイエスは、あなたがたは世の光である、とも言われている。山の上にある町は隠れることができないとか、ともし火を升の下に置く物はいなくて、燭台の上に置くなんて当たり前のことを言っている。光は物を照らすものなんだから、照らさないと意味はない。そしてあなたがたの光を人々に輝かせろというわけだ。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるために、あなたがたの光を輝かせろと言うわけだ。
立派な行い
この立派な行いとは何なのか。立派な行いなんて出来やしない、と思う。立派なことばかりしてられない、と思う。
聖書教育では、立派な行いとは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うことだ、と書いている。では自分の十字架を背負うとはどういうことなのか。それは多分、自分の弱さを背負っていく、弱さを自覚していくということじゃないかと思う。自分は間違いを犯し、罪を犯し、人を傷つけて、人に迷惑をかけて生きている、そんな人間なんだということを自覚して、そういう人間なんだという上に立って生きていくということなんじゃないかと思う。
でも自分の駄目さを自分で認めるってのはとても難しいことだろうと思う。僕自身も自分が間違っていた、自分の方が悪かったなんてなかなか認められない。口ではそう言ってても内心では、本当はあいつの所為なんだとか、自分が悪かったと言っといた方がかっこいい、なんて思っていたりする。本当に自分が悪いと思うときはうちのめされてそこからいなくなりたいと思う。
でも消え去りたいと思うような気持ちを持ちつつ生きていくことが、自分の十字架を背負って生きていくということなんじゃないかと思う。
そんな自分をも愛している、大切だと言ってくれている、その神の声を聞いて生きていく、それがイエスに従うということなんじゃないかと思う。
だから立派な行いとは、抜かりのない、間違いのない行いのことではなく、また誰にも真似できないすごいことをすることでもなく、こんな自分を憐れみ、愛してくれている神を見上げ、神に生かされていることを感謝して生きていくことなんだろうと思う。
地の塩、世の光
イエスがこの時語ったあなたがたとは、弟子たちだった。すぐ前の11節を見ると、この弟子たちはイエスのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるような者たちだった。実際財力も権力もない者たちだった。
イエスはこんな弟子たちに対して「あなたがたは地の塩である」また「あなたがたは世の光である」という。地の塩になれ、でも世の光になれでもない。もうすでに地の塩であり、世の光であるというのだ。
もうすでに塩気は持っているということなんだろう。だから塩として周りを味付けするように、あるいは腐らないように守るようにと言われているのだろう。
また世の光としてもうすでに光っているということなんだろう。それはきっと神の光を受けてその光を反射している、そして周りに光を放っているということなんだろう。だからその光を隠すようなことはするなと言われているんだろう。
立派にならないといけないのではなく、また偉くならないといけないのではなく、神の光をそのままに反射すればいい。それは何があってもいつも笑顔で、いつも明るくしとくというようなことではないだろう。嘆いたりわめいたりしつつ神に聞いていく、愚痴や嘆きを神にぶつけながら生きていく、それが神の光を反射していくということなんだと思う。
塩は周りのものを美味しくし、周りのものを腐らないように守る。光は周りを明るくする。周りの者のために、周りの誰かのために生きていく、誰かのために生きていく、それが地の塩、世の光としての生き方なんだろうと思う。でもそういう生き方にこそ喜びがあるんだろうと思う。