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礼拝メッセージより
「その中にいる」 2007年11月18日
聖書:マタイによる福音書 18章15-20節
兄弟
教会に初めて来た人たちが最初に異様に感じるのは、名前の後に兄弟とか姉妹とかをつけることだとよく聞く。ここの教会は兄弟や姉妹ばっかりなのかと思ったと聞いたこともある。
マタイによる福音書12:46-50 46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
マタイによる福音書では、兄弟とは弟子たちこと、つまり教会員となっている者こそが兄弟姉妹と考えられている。教会によっては今でもそういう風に使い分けている所もあるようだ。教会の週報の中にも、クリスチャンの名前の後には兄とか姉とかつけるが、クリスチャンでない人には、さん、となっているというような教会もあるようだ。
しかし、この同じ話しが、マルコによる福音書3:31-35にも出てくる。
31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
となっている。マタイでは弟子たちに対して兄弟と言ってことになっているが、マルコでは、周りに座っている人々のことを兄弟姉妹と言っている。
どちらにしても、イエスは神の御心を行う人たちが家族なのだと言っているようだ。
では、御心を行う人たちとは誰なのか。バプテスマを受けてクリスチャンとなった人が御心を行い人なのか。その人たちだけが御心行っているのだろうか。
ユダヤ人たちは、同じ国の人のことを「兄弟」と呼び、ファリサイ派の人たちも、一般の人たちと区別して、自分たちのことを兄弟と呼んでいた。ユダヤ人たちやファリサイ派の人たちが持っている、自分たちと一般の人たちは違うのだ、という思い、差別心というようなものが、今の教会でもありそうである。
忠告を聞き入れない人に対しては、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい、と言われている。これは一体どういうことだろうか。教会の中には異邦人、ユダヤ人でない人もいたであろう、あるいは徴税人もいたであろう。そんな中で、忠告を聞き入れない人を異邦人や徴税人同様に見なさいとはどういうことなのか。ユダヤ人にとっては異邦人や徴税人とは罪のあるもの、罪に支配されている者の代表みたいなイメージがあったようだ。教会の忠告にも耳を貸さない人に対しては、教会の交わりから排除するようにということか。イエスは、あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれるといわれる。そう言われると、私たちが赦す者は天上でも赦され、私たちが赦さないものは天上でも赦されない、ということのように聞こえる。これでは教会が天国の鍵を持っていて、ある人は入らせ、ある人は入らせないとしているようだ。果たしてそうなのか。
罪
ここでいう罪とは何なのか。18章23節にひとつのたとえが出てくる。1万タラントン借金している家来が、王に赦してもらったが、自分が貸している百デナリオンを赦さなかったため、そのことを知られて牢獄にいれられる、という話しだ。1万タラントンとは、今で言えば6千億円くらいのお金になるようだ。そして百デナリオンとは100万円位だろうか。数千億円を赦してもらったものが、その60万分の1の100万円を返さないことを赦さなかったという話しだ。
なんとひどい話しだという気がするが、実はこれが私たちの現実の姿かもしれない。そして15節に出てきた、罪を犯した者とはこのような、自分は赦されても人を赦さない者ということなのではないか、と思う。
教会は罪を赦された者として、人を赦さないという罪のある者に忠告する。21節では、ペトロが何回赦すべきでしょうか、7回でしょうかとイエスに問うている。イエスは7回どころか、7の70倍までも赦しなさい、と言われる。これはもちろん490回赦せばあとは赦さなくてもいい、ということではなく、無限に赦しなさいということだろう。
自分が大きな赦しを受けた者として、あなたがたも罪にある者に忠告しなさいというのだ。罪がない者が罪を犯した者に忠告しなさいということではない。罪を赦された者として、赦された喜びを持つものとして、あなたも赦された者なのだからあなたも赦すようになりなさいということだろう。しかしそれは私たちにとってはとても大変なことだ。どれほど赦されていても、私たちは些細なことを赦すことが難しい。また、人を赦せないでいる兄弟を忠告することも難しい。
赦すよりも憎むことの方が多いのが私たちの現状だ。憎むということは、逆にその思いに捕らわれ、縛り付けられている状態だろう。赦すことでその憎む思いから解放される。憎むと言うことは結構エネルギーのいることだと思う。そして人って言うのは案外その憎む思いを必死で掴んで離さない、離してたまるか、あいつを赦してたまるか、というような気持ちになりやすい。結局はそうやって憎しみに縛り付けられて、憎む者の方が疲れてしまう。
人を赦せない兄弟に忠告するということは、その人を愛することでもある。そしてその人を憎しみや罪から解放するように導くことでもあるのだろう。人を赦さない、という人をも愛し忠告する、イエスは私たちにそれを求めている、教会にもそれを求めている。しかしそれはもちろん容易なことではない。だからこそ、そのために祈らねばならないのだろう。
19節で、どんな願い事でも二人が心を一つにして求めるなら天の父はかなえてくださると言われる。どんな願い事でも、と言われているが、どんな自分勝手な願い事でもかなえてくれるということではない。罪を犯す兄弟のこと、その兄弟が赦すことができるように、そして教会がその兄弟にどう体処すべきなのかを聞き、その兄弟を愛することができるようにという願いなのだろう。
何よりも私たちが赦されたものであることを知ることが大事なのだろう。赦されなければならない者であることを知ることが大事なのだろう。私たちこそ、人を愛さず赦さない者である。私たちこそ兄弟に罪を犯している者、そのものなのかもしれない。しかしそんな私たちをも神は大事な大事な一人であると言うのだ。
異邦人か徴税人同様に見なさい、というのは、教会から追い出し関係を絶つということではなく、何よりも赦しが必要な者として、福音が必要な者として接しなさい、ということかもしれない。あなたが大事なのだ、神はあなたを愛しているのだ、ということを伝えなければならない者であるというふうに見るということかもしれない。
教会にとって一番大事なことは、神を愛し隣人を愛すると言うことである。そして一番の罪は、愛さないということだ。礼拝を休んだ、献金をしなかった、教会の奉仕をしなかった、なんてことは大したことではない。罪というと、何か犯罪を犯すことのように考えがちだ。私はそんなことはしてないから罪人ではない、と思いやすい。しかしそれよりも愛さないこと、これこそが一番の罪なのだろう。そして愛せないというのが私たちの現実でもある。しかしそんな私たちをも神は徹底的に赦し愛してくれている。だから愛されている者として、赦されている者として、私たちも隣人を赦し愛していきたい。そして神の赦しを愛を福音を伝えて行きたい。