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礼拝メッセージより
「神の民」 2007年11月11日
聖書:申命記 26章1-19節
初物
まつたけが取れる時期になると毎年のように、今年初めて競りをしたまつたけは何万円でしたってニュースが流れる。初物は特別なものらしい
イスラエルの人たちは、自分たちが新しく与えられた土地に入ったときには、収穫したものの初物を持って祭司の所へ行き、信仰告白をするようにと言われている。「こうして先祖たちに約束されていた土地に入りました。かつてエジプトで苦しい思いをしてきたけれど、あなたの導きによってこうして約束の土地にやってきました。」と神に感謝するようにということのようだ。
そして、自分たちに与えられたすべての賜物を、レビ人やそこに住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい、と言われている。
レビ人
このレビ人はイスラエルの12部族のひとつ。エジプトを脱出してパレスチナに定住するようになったイスラエル人たちは部族毎にそれぞれの土地を与えられた。しかしレビ人は神と民との間を取りなすという宗教的なことに専念するということで、レビ人の町は与えられていたが、他の部族のような土地を与えられていなかった。土地がなければ作物を作ることもできないということだろうが、そこで民のささげものの一部はレビ人のものとなるように決まっていた。そのレビ人と一緒に神の恵みを感謝しなさいということだ。
共に
続いて12節以下では収穫物の十分の一を納めることが書かれている。しかしその十分の一は年貢のように強制的に取られてしまってお上の物となってしまうというようなものではなく、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施す物であったというのだ。土地を持たず神と人との橋渡しをする仕事をしているレビ人のため、また同じところに住んでいる弱い立場の人たちのためのものであるというのだ。そして、そんな人のためということでむしり取られるというようなものではなく、そんな人たちと共に喜び祝うためのものだというのだ。十分の一は一緒に喜び祝うためのものなのだ。なんだか分からんけど出せといわれて出すのではなく、一緒に喜ぶ、一緒に祝うためのものなのだ。
礼拝
一緒に喜び祝うところ。神の導き、神の恵みを共に喜び祝う、それが今の礼拝だろう。だから礼拝は絶対欠かしてはいけない掟ではない。休むことで罰を受けるとか、ダメな者を見なされるとかいうようなものではない。そのことで人の善悪を判断するようなそんなことではない。そうではなく喜びの出来事なのだ。だから礼拝に出席しない人に対して、あの人はどうして来ないのかけしからん、というようなものではなく、あの人が来てないことは残念だ、一緒に礼拝できないことが淋しい、そんなことがらだろう。
献金
また十分の一についても、それは合格と不合格のラインではない。私は十分の一を献金しているからもうこれでいい、あの人は十分の一をしてないから不合格だ、などというような基準の数字ではない。一緒に喜ぶためのもの。自分がいくら出したか、どれくらいしたか、何分の一だったかというよりも、そのことで一緒に喜べているかどうかが問題だ。一緒に喜ぶためにささげているかどうかが問題なんだろう。
12節以下には、十分の一をささげた時にこう言いなさいと言われている事柄が出ている。神の言葉の通り従ってきたことを告白し、神の祝福を求めるようにと言われている。その中に「十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、」というような言葉がある。レビ人や寄留者や孤児や寡婦が、ささげられた収穫物の十分の一を食べて満ち足りたとき、そのような告白をし祝福を求めなさい、というのだ。収穫物のうちどれ位をささげるかということよりも、レビ人や社会的な弱者と言われるような人たちが満ち足りているかどうか、そっちの方が重要であるようだ。十分の一をしたから後はどうなろうと知らない、それで足りなくても私は十分の一をしたからもういいのだ、というようなことになるとどこかおかしい。
私たちには隣人と共に生きるため、共に喜ぶため、いろんなものを与えられているようだ。自分に与えられているお金も時間も才能も、それは自分だけのためにではなく、隣人と分けるため、隣人と一緒に生きるために与えられているのだろう。
だから献金は神に対して、私はこんなにしましたと言って威張ってするものではなく、誰かと一緒に生きるために神に返すものなのだろう。
今の社会は自分がどれほど多くのもの、多くの財産や多くの力や能力を持っているか、そんなことを誇るような面がある。こんなにいっぱいお金を貯めた、こんなにいろんなことをできる力がある、こんなにいろんなことを知っている、そんな風にいろんなものをいっぱい持つことを目指している。しかしそれをいくらいっぱい持っていようと、ただそれを自分だけのためにためこんでいても、自分のためだけに使っていても、それはちっとも嬉しくも楽しくもないだろう。喜びは自分が溜め込むところにではなく、分けるところにあると思う。
ささげもの
新約聖書ローマの信徒への手紙12:1「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ささげものと言うとき、私たちはお金のことを思い浮かべる。しかし聖書は自分の体をささげなさい、と言うのだ。献金は神に対する感謝のしるしである。でもそれだけではなく、自分自身をささげるということのしるしでもある、と思う。お金だけをささげて自分自身は全く別のところにいるとしたらそれは本当は献金ではないのだろう。献金は自分は自分の力で生きている、少しだけ神に助けられているからその分だけ献金しとこうというのとは違うのだ。私たちの全てを支えてくださっている神に感謝し、私たちのすべてを、私たち自身をささげる、それこそが献金の意味なのだろうと思う。
子どもの礼拝の時にあったという有名な話がある。その礼拝の中で献金をしていたが、ある子どもがたまたまお金を忘れてきてしまったそうだ。でも献金の当番の人が袋を持って廻ってきて、どうしようかと思いあぐねたあげく、自分がその袋の中に入ろうとした、ということだった。お金を忘れたので私をささげます、というようなことだったらしい。人が入れるほどの袋だったかどうか気になるが、でもその子は献金の本来の姿を表していたのだと思う。
またマルコによる福音書12:41-44にこんな話が載っている。『 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』
レプトンとは今で言えば50円だろうか。このやもめは50円2枚を献金した。その様子を見てイエスはこの人はだれよりもたくさん入れた、と言ったというのだ。それがこの人の全財産だったというのだ。しかしどうして100円が誰よりもたくさんなのか、と算数を勉強した人は思うだろう。
他の人は有り余る中から入れたという。彼らはいっぱいある中から少しを分けて、自分とは関係のないお金としてそれを入れたのではないかと思う。自分はこちら側にいて、自分の生活は神とは関係のないところにしっかりとあって、自分から切り離せるだけのお金をささげたのではないかと思う。
しかしやもめは、全財産をささげた、つまりそれはお金と一緒に自分自身もささげたということではないかと思う。そのお金には自分が生きることがかかっていたわけだ、それをささげたということは自分自身をもささげたということでもあるのではないかと思う。ただお金をささげただけではなく、お金と一緒に自分もささげた、だからイエスはこの人がだれよりもたくさん入れた、と言ったのではないかと思う。
だから献金は自分をささげる、そのしるしことでもある、と思う。自分が神と共に生きていく、そして隣人と共に生きていく、そのために自分をささげる、自分の財産も才能も何もかも一緒にささげること、それを表しているのが献金なのだろう。
だから献金が自分の収入のどれくらいの割合になっているかどうかというよりも、そこで自分をささげているかどうか、それが問題なのだろう。
共に
社会的な弱い立場に居る人のため、生活に困っている人のため、あるいは神の言葉を必要としている人たちのために私たちは自分自身をささげるのだ。共に神の声を聞き、共に喜び、共に泣くため、そして共に生きるために献金をし自分をささげる、それを神は求めている。
そんなことしていたら自分の生活はどうなるのか、と心配になる。しかし神は私たちを祝福してくださっている。神が私たちの全てを支え、すべてを導いてくださっているのだ。
18節では、「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すっべての戒めを守であろう。」と言われている。あなたは私の民、宝の民なのだ。わたしがあなたを祝福するのだ、と神は言われている。その神が、自分に与えられたものを分け合って生きるように、一緒に生きるようにと言われている。そのするように神は私たちを祝福してくださっている。神の祝福のうちに生きるとは、そういう風に神のために、隣人のために自分自身ををささげ、神と共に、隣人と共に生きることなんだろう。
祝福されているからささげる。そしてささげることでまた祝福されるのだと思う。神から恵みを与えられる。そしてそれをささげることはさらに恵みなのだろう。恵みの中に生きたいと思う。