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礼拝メッセージより
「イエスにつながる枝」 2007年11月4日
聖書:ヨハネによる福音書 15章1-17節
ぶどう
ぶどうはパレスチナ全域で栽培されていた。そして良い実を得るためにはとても手間のかかる植物なのだそうだ。ぶどうの木はすごい勢いで成長するので、徹底的に刈り込む必要があるそうだ。そしてぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことをゆるされない。よりよく生育するために毎年徹底的に切り落とされてしまう。成熟した木は、12月から1月にかけて刈り込まれる。実のなる枝と実のならない枝とがあって、実のならない枝は木の力を浪費させないために徹底的に容赦なく切り落とされる。ぶどうはこのように切り込みをしないと収穫を得ることができない。
またぶどうの木は柔らかすぎて何にも利用できない。切り落とされた枝は燃やしてしまうしかなかった。
繋がってる
イエスは自分のことを、わたしはまことのぶどうの木である、という。そして私たちはイエスにつながることで実を結ぶ、そんなぶどうの枝であるというのだ。ぶどうの枝がぶどうの木に繋がっていなければ実をむすぶことはできるわけがない。枝は木に繋がることで水分や栄養を貰っている。繋がっていなければ生きていくこともできない。そんなことは説明する必要もない、誰もが知っていることだ。
そして私たちとイエスとの関係は、そんな枝と木の関係と同じであるというのだ。要するに、つながっていることが大前提、つながっているから生きていける、つながっているから実を結ぶことができる、離れてどうやって生きていこうなんてことも考えられないようなそんな関係なのだ。
教会の中の照明もそうだ。電線が繋がっていないと電気はつかない。発電所と繋がっていないとつかない。水道も水道管がどこかで破裂すると断水してしまう。
そういう風に私たちもイエスに繋がっていることが大事。ホームテレビの宣伝で、つながってる、と言って二人が手をつないでいるのがある。私たちがイエスに繋がるとはどういうことなのか。イエスと手をつなぐことは出来ないのにどうやって繋がるのか。
7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とある。私たちがイエスに繋がるとは、イエスの言葉が私たちのうちにあるということ、イエスの言葉を私たちの内に持つことで私たちはイエスと繋がるということのようだ。
私たちはイエスに言葉をもらうことでイエスに繋がる。枝が水分や栄養を貰い続けて実を結ぶように、私たちもイエスの言葉を貰い続けることで生き、実を結ぶことができるのだ。
私たちに必要なものをその都度貰っていけばいいのだ。自分がいっぱい抱えて溜め込んでおく必要もない。
断水するときには、風呂場や鍋ややかんや、いろんなものに水を溜めておかないといけない。けれども水道からいつでも水が出るならばそんなことをする必要もない。私たち自身の中にどれほど溜まっているかは問題ではない。イエスにつながっていることが大事なのだ。
喜び
またイエスにつながると言うことは、イエスに愛されて生きるというでもある。
子どもにとっては愛されることがとても大事であるように、私たちにとっても愛されることが必要なのだ。それがなくても死んでしまうことはないかもしれないが、喜びを持って生きていくにはやはり愛が必要なのだ。
「子どもはあなたの愛を待っているのよ。一対一のね。
あなたが働いてその子のパンを稼いできても、その子がほうっておかれるんじゃどうしようもないでしょう。
いま、ほとんどの人が、生活をもっと豊かにしようと、忙しく働いていて、子どもたちは両親とすごす時間がとても少なくなっています。
私たちが接している貧しい人たちは物質的には豊かじゃないけれども、ほんとうに子どもを愛していますよ。
その意味では、世界一の幸せ者かもしれませんね。
マザーテレサ
また私たちがイエスにつながるのは、イエスの喜びが私たちの内にあって、満たされるためだという(11節)。イエスにつながるのはただ私たちが生きるため、死なないためではなく、喜びに満たされるためなのだ。
イエスにつながるということは、イエスに生かされていること、そして愛されていることを知ることでもある。子どもにとって親の愛を受けることが一番の幸せであるように、私たちにとっては神の愛を受けることが一番大事なことなのだ。だからこそイエスは私につながっていなさい、私のもとにとどまりなさいと言うのだ。
選び
そのためにイエスは来られた。イエスは、あなたがたが私を選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだという。きっと何の取り柄も能力もない私たちを、自分につながらせるために、喜びを持って生きるようにさせるために、そして実を結ぶ者とするために選んでくれたのだ。面白いことにその実は枝にぶら下がってできる。イエスからもらった水と栄養と愛とが私たちの中を通って実となるということだ。枝を通らないと、私たちを通らないと実はできないということだ。
この実とは愛なんだろうと思う。イエスに愛され、隣人を愛する者となる、そんなイエスの愛を通していく枝である、あなたたちは私に繋がっているそんな枝なんだ、イエスはそう言っているのだろう。