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礼拝メッセージより
「うめき」 2007年10月28日
聖書:ローマの信徒への手紙 8章18-30節
苦しみ
芸予地震があった時に教会も牧師館も被害を受けた。教会は大きな被害ではなかったけれど、牧師館は風呂場が家からはがれそうになって、家自体も少し傾いたところがあった。傾斜地にあって、古い石垣の上に建っているので余震は大雨の時には危険であると言われた。
地震のすぐ後はそうでもなかったけれど、危ないと言われてからとても心配になってきた。夜は余震の度に飛び起きて様子を見て、何事もないとまた寝る、なんてことが続いた。そう簡単に修理できるような情況でもないし、かといってそんなにお金があるわけでもないし、教会のものだから自分勝手に決める訳にもいかないし、一体どうしたらいいのか不安だらけって感じだった。そんな不安と心配でゆっくり眠れない夜が続いていた。
地震から一月ほどたった時に中四国連合の総会があった。そこで教会の被害の状況や、ゆっくり眠れないなんて話しもした。その時、その総会に来ていた人たちは、顔をゆがめるような感じで、相づちを打つこともなくじっとこっちを見て真剣に聞いてくれた。
そうしたらその日の夜から結構ゆっくり眠れるようになった。真剣に聞いてもらうだけでこんなに違うんだと思った。聞くことってこんなに力があるんだとびっくりした。
だれでも大変なことがあると文句言ったり、弱音を吐いたりする。でも文句を言うことや弱音を吐くことでと言うか、それを聞いてもらうことで苦しみがやわらぐ。自分の苦しみを知ってくれている、と言うことでその苦しみは減ってくる。
ところがその弱音を聞いてくれずに、そんな事言うもんではない、なんていわれると大変。もっと苦しくなったりする。あるいは聞いて貰っても、そういう時は苦しいよね、大変なのよね、なんて何でも分かっているような顔をされたり、いつの間にか世間一般の話しにされてしまったりされると、苦しみは全然減ってはこないような気がする。
あの時は、聞いてくれてる人が苦しくて顔をゆがめるような感じで、相づちを打つこともなくじっとこっちを見て聞いてくれた。だから苦しみが随分と減ったんだと思う。
「こんなことをするのはいやだ」、とか「したくない」、「なんで俺がこんな目に会わないといけないんだ、ばか野郎」とか言うことがいろいろとある。けれどもそれを真剣に聞いてもらう、その苦しさや辛さを分かってもらうことで随分と心が軽くなる。心が軽くなると次の一歩を踏み出す力も出てこようというものだ。
栄光
今日の聖書のすぐ前の所では、わたしたちは私たちを神の子とする霊を受けた、と書かれている。私たちは神の霊を受け、神の霊に導かれている神の子なのだという。神の子とされている、けれども今は私たちは依然として肉を持って生きている。罪を持って生きている、自分中心な、わがままな、エゴを持って生きている。だから私たちには現在はまだ苦しみがある、ということだ。
しかしパウロは、現在の苦しみは将来私たちにあらわされるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思いますという。今は苦しみを抱えつつ生きている、しかし将来神が用意してくれている栄光は、この苦しみとは比べものにならないものだというのだ。
私たちは神の子とされている、しかしその神の子のすばらしさを私たちはまだ完全には受け取ってはいない、やがてその時がやってくる時を待ちのぞんでいる、そんな希望によって救われているというのだ。
神はそのことを保障してくれている。けれども証明書のように目に見えるものではない。もちろん保証書を預かっているわけではない。
神の子とされているという神の約束と、この世の苦しみとの狭間で私たちはうめいている。
祈り
しかしそんな私たちのために、霊が、神が既に祈っている。私たちの中で。すぐ前のところで、神が私たちのうちにおられると言われていた。そして今日のところではその神、ここでは霊つまり神の霊が私たちの為に祈っている、と言う。私たちのことを祈ってくれている、と言う。こいつのことを頼むよ、と執り成してくれているというのだ。
祈り、それは神を呼び起こすこと、と思っていた。神よ聞いてくれ、俺の祈りを聞いてくれ、こっちを向いてくれ。だから大きな声の方がよく聞こえて言いのかもしれない、と思ったり。
神社で柏手を打つ、がそれは神を呼ぶことだそうだ、俺はこっちに居るからこっちを向いて俺の話しを聞いとくれ、俺の願いをかなえておくれ、と言うこと。らしい。
祈りとはそういうものだと思っていた。ところがそうでもないらしい。既に霊は祈っている。神の霊が、つまり神が先に祈っている。と言うことは祈りとは、神よこっちを向いてくれ、ということではないらしい。神がこっちを見てくれないかもしれない、見てくれていないんではないかと心配することもない。と言うことか。神の方が先に私たちを見ている、私たちを見ている神を私たちが見る、それが祈りなのかもしれない。神はいつも私たちの方を見ていると言うことか。
神が私たちの内におられると言うことは他のところにも書いている。
コリントの信徒への手紙二
13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。
ガラテヤ
2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
その私たちの内におられる神が私たちの為に祈ってくれている。しかもうめきをもって祈っている。
うめき それは苦難の中、苦しみの中、苦悩の中から出てくるものだ。御霊がうめくということは、私たちが苦しみうめいている、その時に御霊が私たちの内にいて一緒に苦しんでいるということだ。
順風満帆にことが運ぶということだけが神の業ではない。うまくことが運ぶ時にはそれは神の助けで、うまく行かない時は神はそこにはいない、と思いがち。しかし実はそうではない。うまくいかない人生を共に歩み、共にうめくそれが神の業なのだ。
奇跡的に事態が好転することは人は求める。それこそが神の業であると思う。どうしてそうならないのか、どうして神は私を放っておくのか、本当の神なら、神がここにいるなら、私を救ってみろ、奇跡を起こしてみろ、と思う。私たちの病気をなおしてみろ、私たちの心配を取り去ってみろ、この大変な状態を解決してみろ、と思う。もちろん口に出す時には、してみろではなく、してください、と言うのだが。しかし実際にはそう奇跡は起きない。神はそういう仕方で私たちとかかわっているのではないらしい。
神はいない、少なくとも私のところにはいない、私の祈りは聞かれない、私は神に聞かれる祈りが出来ない、奇跡を起こす信仰がない、と思う。
しかしそういううめきを神はしっかりと聞いている、と言うことだ。うめく私たちと同じように御霊がうめいている、そしてとりなして下さっているというのだ。つまり苦しみとともに生きることが出来るように、苦しみのある中でも、そこで生きるように、その力を与えると言う仕方で私たちとかかわっておられるようだ。
神は私たちのどんな愚痴をも聞くという仕方で私たちと関わっているのかもしれない。何かで、愚痴が言えるということがとても大事だ、と聞いた。私たちがうめく時、その時にも私たちは一人ではない。苦しみうめく時にも神の霊は私たちのうちにいる。そして共にうめいている。苦しみの中でも私たちが生きるように、苦しみをも受け止めることが出来るように、苦しみを乗り越えることが出来るように、と執り成してくれている。