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礼拝メッセージより
「神の国が来た」 2007年10月21日
聖書:マタイによる福音書 12章22-32節
心霊写真
子どもの頃からテレビをよく見ていた。そしてテレビからいろんな情報を仕入れていた。テレビの言うことは正しいことなのだと思っていた。大予言とかUFOとかも本当のことだと思っていた。
でも最近のテレビはおかしいと思うことが多い。悪者というレッテルを貼られた者にたいしては徹底的にやっつける。カルト集団のやっていることはどんなにおかしいか、間違っているかというようなことを繰り返し放送する。あなたがこれをやらないと先祖がたたるとかなんとかいうような人間の恐怖心を煽って、人をだまして人を縛り付けて金儲けをしている、というような批判を繰り返ししていた。
そうかと思うと同じ放送局で別の時間になると、心霊写真だと言ってここに霊が写っていますとか言って、霊能者という人が登場して、これはここで殺された人が成仏できないでいる、何か訴えているとかいうようなことを、まるでそれが何の疑いもない真実であるかのように放送している。
カルト集団がやるとおかしなやつらだと言う、それと同じ事をテレビでやっているじゃないかという気がして仕方ない。そんなのをまじめに見る方がおかしいということなのかもしれないが。
悪霊
聖書によく出てくる悪霊って何なんだろ。そんなのがいるのだろうか。悪霊なんて聞くと心霊写真だと言われるような物に写っている、なんだか得体の知れないものというようなものを想像してしまう。テレビの見過ぎか。
でも悪霊がテレビのいうように、どこかにいてたまたま通りすがりに取り憑くようなものならば、背中に取り憑いてちょっと悪さをするというようなもので、霊能者と言われるような人に頼めば取り除けるようなものならば話しは簡単だ。
誰かが悪霊についてこんなことを書いていた。悪霊とは、人を神から引き離し、不安と空しさ、絶望と虚無に追い込む勢力。人を憎しみと争い、さらに殺人の狂気へと駆り立て、人と人、神と人との関係を断ち切る強力な闇の力、だと。
そうすると、悪霊とは、背中にちょこっと乗っているようなものではなく、人間の心の奥から人間を揺り動かすような闇の力であるということだ。不安になったり空しくなったり、あるいは憎しみを持ったりする、そんな心の奥からしみ出てくるような思いを持たせる、それが悪霊の力だという。
まるで人間の存在を根っこから揺さぶる力を持っているかのようだ。だからファリサイ派は、悪霊の頭によって悪霊を追い出しているとしか思えなかったのだろう。とても人間の力によってどうにかなるものではないと分かっていた、けれどもイエスがメシアである、キリストであるとは絶対に認めたくない、そこで彼らの結論は悪霊の頭が悪霊を追い出したということになったようだ。
神の国
しかしイエスがいうように、内輪で争う国が成り立っていかないように、悪霊を追い出したのは神の霊の力によってしか追い出せない。そして神の霊によって悪霊を追い出しているのだとしたら、それは神の国がここに来ているということだとイエスは言う。神の国はもうここに来ているというのだ。
神の国、天の国、天国、いろんな言い方があるが、それらは死んだ後に行くところというような感じがする。けれどもイエスが来てそこで神の力で悪霊を追い出しているところはもうそこが神の国である、天国であるというのだ。死んだ後でも死ぬ前でも、神の支配があるところ、神の力が及ぶところ、それこそが神の国なのだ。
その神の国がもうここに来ているというのだ。もう神の支配下にあるのだ。イエスが伝道を始めた初めの言葉は、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさいということだった。
当時は、障がいを持っている人たちは悪霊に取りつかれていて、悪霊のせいでそうなっていると考えられていたそうだ。そして悪霊を追い出すような儀式をすることもあったらしい。
イエスがどうやってこの人を癒したのかはよくわからない。よく分からないけれども、神の力が、神の支配がここにやってきた。そしてこの人は癒された。悪霊の実体はよくわからないけれども、神の支配に入っていなかった者が神の支配の下に入った。神の国がやってきた、そこで癒されたというわけだ。
国が変わって国籍が変わったようなものかもしれない。
国籍が変わったからと言っても急に私たちが変わるとは限らない。神の国がやってきて、神の国の住人になったと言われても、私たちの本質はそうそう変わらない。私たちは依然として不安もあり空しさを感じることもある。憎しみを持つこともある。そういったものを持っているのは事実だ。けれどもそれはいまだに闇の力に支配されているからではないのだ。確かに罪はある、けれども私たちはもうすでに神の支配下にある、神の国にいるのだ。だからいつ悪霊に脅かされるかもしれない、というような思いに怯える必要はないのだ。
大変な目に遭って苦しむこともいっぱいある。失敗して嘆いたり落ち込んだりすることもいっぱいある。しかし決して私たちがひとりぼっちにはならない、決して神から見放されることがない、神がいっしょにいてくれないことは決してない、それが神の国なのだ。そんな神の国がやってきたのだ。
赦し
すべての罪は赦される、人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるとイエスは言う。しかし、霊に、つまり聖霊に対する冒涜は赦されないという。また、人の子に良い逆らう者、つまりキリストに良い逆らう者は赦されるが、聖霊に良い逆らう者は赦されないという。
何だかよく分からないという気もするが、誰かが、聖霊を冒涜するとか聖霊に逆らうというのは、すべての罪は赦されるということを認めことじゃないか、と言っていた。すべての罪は赦されるということを信じない、認めない者にとっては、赦されているという安心と喜びはないわけだ。本当に赦されるか、こんなことまでは赦されないんじゃないか、こんな自分は赦されないんじゃないかという恐れが出てくる。そういう者が聖霊を冒涜し言い逆らう者なのだということかもしれない。
私のこの罪は赦されるわけがない、あるいはあの人のあの罪だけは絶対に赦されはしないというように限定してしまうこと、それは神の力を限定してしまうこと、神の許しを限定してしまうことであり、それが聖霊を冒涜するということなのだろう。
神の国とは全ての罪が赦される所なのだ。
私たちの全ての罪は赦される、そして神の国の住民とされている。あるいは今自分はぼろぼろかもしれないし、罪だらけかもしれない。まるで悪霊に完全に支配されているような有り様かもしれない。しかしイエスにはあらゆる束縛から私たちを解放する力があるのだ。そしてもう私たちを神の国に招き入れてくれているのだ。それを否定するのではなく、疑うのではなく、反対にそのことを喜び、安心して生きなさい、私を見なさい、私の力を見なさい、そして信じなさい、イエスはそう言われているのではないか。