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礼拝メッセージより
「全体の益」 2007年10月14日
聖書:コリントの信徒への手紙一 12章1-11節
羨望
小学校の時、通信簿にはいつも、大人しい、引っ込み思案、授業中に発言しない、と書かれていた。
親戚が近くに住んでいた。同じ年代のいとこがごろごろしていた。そのいとこたちといつも比べられていた。中にはとてもよくしゃべる奴もいて、大人の前でも物怖じしなくて面白いことをしゃべっていた。そういう奴と比べて、こいつはなにもしゃべらないと言われていたように記憶している。たまに何かしゃべるとそれを殊更大変なことが起こったように言われて、それでまた萎縮してしてしまっていたような記憶がある。何であんなに面白い話しができるのか、何であんなにいろいろと話せるのか、とみんなと仲良くしゃべる人を見ると思う。話しかけてきてくれたら応答はするようになったけれど、こっちから一体何を話せばいいのか、と今でも思う。何の気負いもなく話しを切り出せるような人を見ると羨ましくなる。
話すことだけじゃなく、自分のないものを持っている人、自分に出来ないことが出来る人を見るとすごく羨ましくなる。歌が上手い人を見るとすごいなと思う。あがめ奉るような思いを持ったり、引け目を感じるようなところがある。でもそれは同時に、逆に自分の方が上手いじゃないかと思える時には相手を見下すような思いを持つことにも繋がるんだと思う。
何か特別なことができるから、特別なものを持っているからといってやたらとその人を持ち上げるような人は、逆に出来ない者や持っていない者を見下すようなところがあるような気がする。
分裂
コリントの信徒への手紙には霊の賜物のことがよく出てくる。コリント教会では「霊の賜物」に恵まれている者が多くいたらしい。しかしその賜物をめぐって分裂が起こっていたようだ。賜物の優劣をめぐっての分裂。神の霊による賜物の優劣を人間の優劣のように思っていたのだろう。
言葉の神
霊と言われると何か人間を陶酔させる、興奮させるもののようなイメージがある。取りついてその人をコントロールするような感じ。そしてそういうものこそが霊の働きだというような言われ方をすることもある。確かにそういう陶酔感に浸れればいいなと思うこともある。いやな自分がなくなって、恍惚になれればいいような気もする。でもそれが行き過ぎると多分薬のお世話になるに違いない。麻薬をやればそうなれるらしい。
しかし聖霊の働きは、そういう風に気分を高揚させるとか、陶酔させることとは限らない。あるいはそういうこともあるかもしれない。しかしそんなことよりも、そんなことがなにもなくても「イエスは主である」と告白させること、これこそが聖霊の働きである。それが一番の働きである。
信仰は贈り物
また「イエスは主である」と告白することも神からの贈り物である。「イエスは主である」と語る者は神の霊によって語っているのだ。だから自分の努力で勝ちとるものではない。そうする資格を得てもらうものでもない。これは神さまがそうさせたのだ。何も自分たちの努力でもない。だから自分たちが偉いのでもない、信仰を持っているものが偉い訳ではない、優れている訳でもない。だから信仰がない、自分の信仰と同じでないと言って人を見下げているとしたらそれこそ思い上がりだろう。
賜物は贈り物
信仰と同じく、いろいろな賜物も神からの贈り物である。神から賜った物。読んで字の如く。
その賜物にはいろいろある、という。神はみんなにいろいろな贈り物をしている。
同じように勤めも、働きも人それぞれに与えられている。と言う。
全体の益
そしてそれは全体の益となるためなのだ。
それぞれに与えられている賜物は自分がそれを誇るためでもなく、あるいは自分のためだけにそれを使うためでもない。私たちは自分が何ができるとかできないとか言って誇ったり羨んだりするけれども、神から貰った賜物は、それによって自分が自慢したりいい思いをするために与えられているのではない、全体の益となるため、に与えられていると言うのだ。
だから賜物は自分のために用いると言うよりも、他の誰かのために用いる時にその力を発揮するのだろう。
一人一人に
そしてその霊の働きは「一人一人に」現れる、とある。つまりみんなに霊の働きが現れるのだ。
それぞれに違う働きがある。「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力」など。
確かにこんなのみたら自分には霊の働きはない、と思う。よく自分には賜物がない、という。優れたものを持っている人を見ると、自分には何もない、と思う。
話しは違うけれども、教会で時々、私には賜物がないので、ということを聞く。ただ単に謙虚な気持ちから賜物がない、と言ってる場合もあるだろうが、自分が何もしたくない口実に使われることがよくあると思う。いつか教会用語辞典を作ることがあったらこれを載せようと思ってる。「私には賜物がない 意味:私はしたくない」
本当は自分には何も賜物がない、ではなく、あの人と同じ賜物はない、なのだ。
霊の働きも同じだろう。自分には聖霊の働きがない、なんてことはない。「イエスが主である」という思いがあるならば、そこには霊の働きはあるのだ。賜物はあるのだ。自分だけに与えられた賜物があるのだ。
贈り物を貰っていながら、貰ってない、何もない、と言うとしたらどうなるだろう。送り主は悲しむだろう。
御心のままに
それぞれの働きも唯一の神の霊の働きである。そして霊は望むままにそれを一人一人に分け与えて下さるのだ。つまり神が必要なところに必要な働きを与えられるということだ。
神は必要のないところに与えることもないし、必要のあるところに与えないこともない、だろう。
何が必要か、神が一番ご存知なのだから。
全体の益のために
そうやって与えられた働きは、全体の益のための働きである。
全体とは、教会全体なのか、それもあるだろう。世界全体なのか、きっとそれもある。
教会のため、世界のため、私たち一人一人に、賜物、務め、そして霊の働きが与えられている。何とかそれを活かしていきたい。活かすための賜物なのだから。
だから私たちの信仰は、自分だけがいい思いをするためだけの信仰ではない。神が私たちを集めておられるのは、私たちだけのためではない、全体のため、世界のためなのだ。私たちは世界のために生きるようにと呼び集められてもいるのだ。
自分の務め
だから自分の務めを果たしていこう。人の真似なんかする必要は何もない。自分にできることをやっていこう。それはあるいは自分にとってはまるでどうでもいいようなことかもしれない。こんなこと誰でもできることだから、と思うようなことかもしれない。でもそれをしないことで教会も世界も倒れていってしまう。
小さなことと思えることが実は一番大事なことかもしれない。とにかく自分にできる、自分に与えられた務めを精一杯果たしていこう。そうすることで教会は建てられていくはずだ。世界が良くなっていくはずだ。神さまはすべてのことを考えて全体の益となるようにという考えの元に私たちそれぞれに賜物を与えられているのだから。だからその務めは自分だけに与えられた特別な務めなのだ。全体の益となるために私に与えられた務めなのだ。自分がやらなければやる人はいないのだ。そんな務めを、賜物を神は私たちに与えられているのだ。そしてそれを差し出すことが大切だ。受けるよりも与える方が幸いであるとイエス・キリストが言われている。
かけがえのない
神は私たちをかけがえのないものと見ている、自分の代わりはいないのだ。そんな私たちにまたかけがえのない賜物と務めを与えられているのだ。
だからきっと神にとって私たち一人一人は大事な大事な一人なのだ。