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礼拝メッセージより
「風」 2007年10月7日
聖書:ヨハネによる福音書 14章25-31節
千の風になって
巷では千の風になって、が流行している。
千の風 あとに残された人へ
-作者不詳-
私の墓前で泣くのはやめてください。
私はそこにいません。眠ってなんかいません。
私は千の風となって大空を駆けています。
私はダイアモンドのきらめきとなって雪に舞っています。
私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
私は優しい秋の雨となっているのです。
朝の静けさの中、あなたが目覚めるとき
わき上がる風となって
小鳥たちを輪を描いて舞わせます。
私は夜に輝く静かな星となって、あなたを見守っています。
だからどうか私の墓前で泣くのをやめてください。
私はそこにいません。私は死んではいないのです。
近親者を亡くした人にとってはとても慰められるということを聞く。でも多くの日本人にとって違和感はないのだろうかと思っていた。夫婦で一緒に入ろうと宣伝している墓の宣伝もあるけれど、亡くなった人は墓にいると思っているんじゃないのかと思っていた。それで墓参りをして会いに行っているのかと思っていた。墓にはいない、眠っていない、と言ってしまっていいのかなと心配になってしまう。まして死んではいないなんて、どう考えたらいいのかさっぱりだ。
ネットを見ていると、「住職のひとりごと」というブログがあった。その中で、人は死んでから49日たつと来世に行くのでお墓にはいない。でもこの歌のようにそのあたりにさまよっているわけではない。でも墓参りをするのは死んだ人の回向となるので大事なことだ、と書いてあった。
先日ギデオン協会に、ホテルでの晩餐会に招待された。そこで誰かが言っていた。千の風はイエスさまのことを歌っているのだと。そう解釈した方がすっきりするなと思った。イエスさまなら墓は空っぽでいないし、復活したんだからもう死んだままではない、生きている。この死にピッタリだと思った。
聖霊
ヨハネによる福音書14章15節以下の所に、新共同訳聖書では、聖霊を与える約束、と小見出しがついている。イエスは、父にお願いして弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる、そしてこの弁護者は真理の霊である、と言っている。この父とイエスさまと聖霊の関係がどうなっているのかよく分からない。
14章8節以下のところでは、弟子のフィリポがイエスに、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったことが書かれている。それに対してイエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」と答えている。父なる神と子なるイエスとはほとんど一体、ほとんど同じということだろう。
そして父なる神が遣わしてくれる聖霊に関しては、26節以下を見ると、イエスは「わたしは、あんたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」というのだ。つまり聖霊はイエスと同じ働きをする方であるということだ。霊なので目には見えない、けれどもイエスと同じことをする、結局聖霊はキリストの霊というべきものだということだ。父なる神と子なるイエス・キリストと聖霊の区分はあるようなないような、どうもはっきりとは分からない。
聖霊をよみがえりのイエスだ、と言う人もいるみたいだ。
区分ははっきりとはしないけれども、神は聖霊として今も私たちと関わってくれている。見えないすがたで支えてくれている。あるいはイエスは聖霊として世の終わりまでいつも私たちと共にいてくれるという言い方もできるんだろうと思う。
そして聖書ではこの聖霊とか霊とかに訳されている言葉はプニューマというようなギリシャ語らしいのだが、この言葉は風とも訳せる言葉らしい。
千の風になるということは、聖霊となるということ、と考えるとそのままイエスの歌になるような気がする。イエスは風となって、この歌のようにいつも私たちと共にいる。秋にも冬にも、朝にも夜にも、どんな時にも私たちと共にいる。いつも見守ってくれている。いつも支えてくれている。いつも愛してくれている。
祈り
聖霊とは神の力というようなイメージではないかと思う。けれども聖霊は見えない。見えないけれども風が吹き渡っているように、いつも私たちに働きかけてくれている。そしてその聖霊の働きはキリストの言葉を思い起こさせてくれる、というものだ。目に見えない聖霊の働きは、目に見えない私たちの心の中に静かに起こるもののようだ。
恐れや不安でいっぱいになるような時がある。そんな時どうしたらいいか。ある祈りの本の中に、静かに目を閉じて呼吸をする度に神を吸うと意識したらいい、というようなことが書いてあった。普段から息を吸う度に神を吸う、聖霊を吸うという意識を持てたらいいと思うけれどもそうもいかないので、いざというとき、どうしようもなく不安になったり恐れに取りつかれた時だけでも、ゆっくりと聖霊を吸い込んで、吐く時は自分の不純物を外に出すとイメージするといいそうだが、そうするといいと思う。実はそうすることこそが祈りなのではないかと思っている。あれしてくれ、これしてくれとしゃべり続けることだけが祈りではなく、それよりもじっと静かに神を呼吸すること、それこそが祈りなのではないかと思う。
聖霊が、風が吹き渡るようにいつもいて、いつも私たちと共にいてくれているから、私たちはいつでも、どんな時でも祈ることができる。そして聖霊は私たちにイエスの言葉を思い起こさせてくれる。お前を愛している、お前が大切だ、という神の気持ちを私たちに思い出させてくれる。神は、助け主、また弁護者である聖霊として永遠に私たちと共にいてくれるのだ。