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礼拝メッセージより
「すること」 2007年9月30日
聖書:ヨハネによる福音書 5章1-18節
安息日
聖書には安息日のことがよく出てくる。安息日とは創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに七日目に休んだということに由来する。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2には「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
こういう風に、安息日には休まにゃならんという決まりがあった。そういう律法があった。安息日には労働をしてはいけなかった。労働をしないということが大事なことだった。
では何が労働に当たるのか、ということが問題になってくる。そこで律法の学者はこの安息日の律法を具体的に日常生活にあてはめるために39の規則を作り、さらにそのひとつひとつを6つの細則に分けていたそうだ。ということは全部で234の細則ということになる。
安息日に衣服を繕ってもいいかどうか、入れ歯をつけてもよいか、義足をはいていいか、なんてことをまじめに議論していたそうだ。安息日にブローチをつけてはいけなかったそうだ。あるいは、ハンカチを手に持って歩くのは労働になるので許されないけれども、手に巻いていれば良かったそうだ。そういうことが生きるか死ぬかという大変な問題と考えられていた。
ベトザタ
その安息日にイエスはエルサレムにやってきた。そしてベトサダと呼ばれる池に来た。この池の底には地下水が流れていて、ときどき泡立つことがあったそうだが、そんなことからなのだろう、主の使いがときどき降りてきて水を動かして、その時に最初に池に入る者は癒されると言われていたようだ。そこで池の周りの回廊には病気の人や、身体の不自由な人が大勢いた。
イエスはその中の一人に、よくなりたいか、と語りかけた。そして、自分を水の中に入れてくれる者がいないと聞くと、起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい、と言った。そうするとユダヤ人たちは、安息日なのに床を担ぐことは律法で許されていない、と言い出した。ハンカチを持って歩くのは労働だと言われていたくらいなので、安息日に床を担ぐなんて言語道断だったのだろう。
この人は、誰か知らないが病気を治してくれた人がいて、その人が床を担げと言ったのだと答えた。そしてもう一度イエスに会うと、ご丁寧にユダヤ人たちに、自分を癒したのはイエスだと知らせに行っている。そこでユダヤ人たちはイエスを迫害し始め、その後神を父と呼ぶことを聞いてからは殺そうとするようになったと書かれている。イエスが処刑されることになった原因の発端は安息日の問題だったようだ。
しばり
ユダヤ人たちから見れば、イエスも弟子たちも安息日の律法を破る常習犯であった。しかしイエスは律法なんてものはまるで駄目な無用なものだと考えていたわけではなかった。しかし、イエスの律法理解とユダヤ人たちの律法理解とは随分と違いがあったようだ。
ユダヤ人たちにとって安息日は、ただ何もしない、何もしてはいけない日だったようだ。これはいいか、あれはいいか、許されるか、律法違反ではないか、そんなことを一生懸命に考えて、いつもびくびくしている、そんな一日だったらしい。
彼らは自分たちがそうやって異常なほどに神経質になっているだけではなく、同じことを回りの者にも押しつけていた。俺たちはこれほどやっているんだ、という誇りと、お前たちは何をやっているんだ、ちゃんとせんか、やっぱりお前たちは駄目だ、という人を裁く気持ちを持つようになる。人を裁き人の駄目さを指摘することで自分の正しさを証明していたと言ったほうがいいのかもしれない。俺はこんなに守っている、誰よりも守っているという優越感は持てたとしても、とても疲れる一日なんじゃないかと想像する。
彼らはそうやって安息日の律法を必死に守っていた。しかし、いつしか人間のいのちよりも律法を重んじるようになったようだ。律法に関しては事細かにいろいろなことを知っていて、律法に違反しないようにいつも気を配っていた。けれどもそれとは逆に自分のそばにいる隣人のことはあまり見えていないようだ。律法とかしきたりとかはよく見えていても、隣人の苦しみも悲しみも見えなくなってしまったようだ。そしてそんなことからイエスとの対立が生まれてきたのだろう。
すること
世の中にはいろんなしきたりがある。教会にもいろいろあるだろうか。でもしきたりばかりを見ることで人間そのものが見えなくなることがある。
日曜日に働いてはいけない、礼拝を休んではいけない、あれもしてはいけない、これもしてはいけない、なんて聞いたことがあるが、そんなことばかり言われるとびくびくしてしまう。酒も飲まない、たばこも吸わない、悪いことはしない、それが立派なクリスチャンだなんて言われ方をすることがある。あれもしない、これもしない、結局何もしないことがいいクリスチャンみたいだと思ったことがあった。
罪人と接することはしない、病人には触れない、穢れたところには近寄らない、というようなことが大事だと言われていた時に、イエスはそんな人たちに近づいていって話しをし、触って、一緒に食事をした。
またイエスがいつも言われていたことは、隣人を愛しなさい、大事にしなさい、ということだった。あれもこれもするな、というよりも、これとこれをしなさい、とイエスは言われているような気がする。何かをしないことよりも、何かをすることが大事なのだと思う。安息日にも、その日なにをしないかが大事なのではなく、何をするかが大事なのだ、とイエスは言っているのではないかと思う。
愛すること
イエスは私たちをこの教会に招いてくれている。それは私たちを、立派な教会人、とでも言うような枠に閉じこめるためにここに招いているのではないだろう。イエスはそのままの私たちを招き、そのままの私たちを愛してくれているのだ。そして愛する者となるように、何かをするものとなるように期待されているのだと思う。
律法も本来は人間を生かすためのものだった。それを人間を裁くため、縛るためのものにしてしまっていたからこそイエスは怒った。律法の本来の意味を取り戻すためにイエスはユダヤ人たちとぶつかった。
イエスの言葉も私たちを生かすためのものだ。人を裁くためでも縛るためでもない。こうしなさい、それをしなさいという風に言われていることもある。しかしそれは、お前はそれもできてない、これもできてないじゃないかと言って私たちを責めているのではないと思う。これをしなさいというのは、私たちが生きるため、私たちが生き生きと生きるために私たちを招いてくれている言葉なんだと思う。
イエスは愛しなさいと繰り返し語った。それが一番大事だと言った。愛することが大事なのだ。自分がどれほど悪いことをしていないか、クリスチャンらしくないことをどれほどしていないかが大事なのではなく、どれほど隣人のことを大事にしているか、どれほど愛しているか大切なのだ。
そのためにも自分自身が神に愛されていることを知ることが大切だ。礼拝は休まないことが大事なのではなく、そこで神に愛されていることを知ること、そして自分が愛する者と変えられていくことが大切なのだ。