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礼拝メッセージより
「何をすれば」 2007年9月23日
聖書:マルコによる福音書 10章17-31節
金持ちの男
『ある人』がイエスに走り寄ってきた。この人は金持ちであったと書いてある。ここと同じ話はマタイによる福音書にもルカに福音書にもでてくる。マタイではこの人は青年と書いてあり、ルカでは役人と書いている。この人は若い役人だったのかもしれない。
この人はイエスに走り寄って、ひざまずいて尋ねている。聖書にはイエスを試そうとか、罠に掛けてやろうとかいう人がたびたびでてくるが、この金持ちはどうやらそういったたぐいの人たちとは違っていた。イエスを尊敬していて、教えていただきたいことがある、この偉大な先生から聞きたいといった気持ちから、こういった態度に出たのではないか。金持ちという人は威張っている人が多いようなイメージがあるが、この人はそんな人ではなかったようだ。
そしてこの人の質問は「善い先生、永遠の生命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」というものだった。
その後のイエスとの会話によれば、律法は小さいときからずっと守っている、それも自信を持って人に言えるほどだった。こういう人こそイエスからお褒めの言葉をもらってもいいんじゃないかと思う。あなたの熱心さはすばらしい、その向上心が大切だとか何とかいってあげても良さそうな気もする。
永遠の命
ところでどうして、何でこの人はイエスに永遠の命のことを聞きに来たのか。律法はしっかり、きっちり守っていると、自他共に認める立派な信仰者だったようだ。ということは社会的にも認められているということなんだろう。みんなからも立派な人間だと認められていて、しかもその上金持ちなのに、それ以上何を聞きに来たのか。
今の教会で言えば、敬虔なクリスチャンと言われ、礼拝には毎週毎週出席し、収入の十分の一は必ず献金し、教会の奉仕もよくして、おまけに社会的にも信用があり、堅実な仕事をしている金持ち、と言ったところかもしれない。すべきことと言われていることは完全にこなしてきた人だったのだろう。
この金持ちは、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいかと聞いた。律法をしっかりと守ることは、神との関係をしっかりと持つために、律法を守っていたはずだ。神との関係をしっかりと持つということが、永遠の命を受け継ぐことでもあるはずだったんじゃないかと思う。
しかし彼は、律法は守っているけれど永遠の命を受け継いでいるという気持ちになれていない。あるいは完全主義者だったのかもしれない。もしまだ足りないものがあっては大変だと思っていたのかも。あるいは永遠の命の保証がほしかったのか。イエスにおまえは大丈夫だと言ってほしかったのか。それとも、いくらやっても何かが足りなかったのか、やるべきと言われたことを全部やってきてもやはり何かが足りない、満たされないといった気持ちがあったのか。
何をすれば
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」と書いてある。律法は子供の時から守ってきました、と答えるこの人をイエスは慈しんでいる。何ということか。そして「あなたに欠けているものが一つある」と言う。どこにも抜かりのない人間のように見える。たぶんだれもこの人に対して欠けているところなど見いだせないであろう人に向かってイエスは欠けているという。そしてそれは「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」と言うものだった。
この人はイエスの言う通りに出来なかった。だから悲しみながら立ち去った。彼は自分の財産を売って施すことが出来なかった。しかしそのことが大事なんだ、財産を持っていることが悪いんだとイエスは言いたかったのか。財産を手放すことが、そして施すことが永遠の命を得る条件だと言いたかったのか。財産を手放せないから永遠の命を得られないのだと言いたかったのだろうか。たぶんそうではないだろう。もしそうだとしたら律法を守っていると答えたこの人を慈しみを持ってみることはないだろう。そのときには叱るとか、責めるということはあったとしても、慈しみを持って見るなんてことは考えられないのではないか。
ではイエスは何を言いたかったのか。どうしてイエスはこの人を慈しみを持ってみたのか。それはこの人が、永遠の命を受け継ぐために何をすればいいのか、と聞いてきたからではないか。つまり何かをすることで永遠の命を手に入れようとすることに対して、そういうことではないんだと言いたかったのではないかと思う。
だから、何かをして手に入れようとしているのだったら律法を守ることは知っているではないか、と答えた。それに対してそれは守っていると答えたこの人に対しては、そこまで言うならば、つまり何かをすることで永遠の命を得ると言うならば、自分の財産を売って施してみなさい、そんなこと出来ないだろうと言いたかったのではないか。つまり自分で何かをして、その代償として永遠の命を手に入れようとしても出来ない、と言うことを言いたかったのではないか。そう思える。永遠の命なんてのは自分が何かいいことをして、そしてその代償として手に入れるものではないんだ、と言うことを言いたかったのではないか。
こども
今日の聖書のすぐ前のところでは神の国の話が出てくる。子どものように神に国を受け入れる者でないとそこには入れない、とイエスは言った。神の国とは何かを持っているから入れるのではなく、受け入れるから入れるということのようだ。
受け入れる人が入ることが出来る。自分で努力して手に入れる人が入るのではないらしい。自分が何かを持っているから、そこに入ることが出来る、手に入れることが出来ると言うものではないと言うことだ。神の国に入るということと、永遠の命を受け継ぐということは結局は同じことを言っているのだと思う。それは神との関係を持って生きるということなんだろうと思う。財産をいっぱい持っているから神との関係を持つことが出来るのでもなく、善い行いをいっぱいしたから持つことが出来るのでもない。自分自身の中に何を溜め込んだとしても、神から愛されている、大切に思われているということがなければ神との関係をないままだ。愛されている、大切に思われているということを受けとめ、受け入れること、そこで初めて神との関係が出てくる。それが永遠の命を引き継ぐこと、神の国に入るということだろう。だから、神の国とか永遠の命というもの、それはただ受けるものなのだ。神からいただくものだ、自分の力で手に入れるものではない。そのことをイエスは言いたかったのではないか。
何を
誇るものは何もない、誰にも知られたくない後ろめたいことばかり、だから神に愛される道理もない、大切にされる資格もないと思う、そんな者こそが神の国に一番近く、永遠の命に一番近い、ということだろう。
私たちはもうすでに神の国を約束されている、永遠の命を約束されている。神の子とされている。このことを受け入れる者はすでにそうなのだ、とイエスは言う。
イエスはそのために、私たちを神の子とするために、神に国に招くために、永遠の命を与えるために十字架にかかったのだ。私たちのなすべきことはこの十字架を見上げていくこと、このイエスに従うことだ。
もうすでに神の子にされているから、神の国の一員にされているから、永遠の命を約束されているから、だからこの神に従うのだ。もうすでにそうだから、それにふさわしい生き方をするのだ。
奉仕も、善いことも、献げ物も、神の国を、永遠の命を得るための手段ではない。この金持ちはそれがいかにも手段だと思い、どうすればいいかと聞いてきた。だからイエスはそうではないんだ、と言いたかったのではないか。だから人間の努力で神の国に入ることは出来ない、しかし神には出来るのだ、と言われた。だから神に頼る。まず第一に私たちのなすべきことはこの神に頼ること。私たちに永遠の命を与えてくれているこの神にイエスに感謝することだろう。