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礼拝メッセージより
「いろいろ」 2007年9月16日
聖書:コリントの信徒への手紙一 7章1-16節
決まり
世の中は何でも決まったものがある、と思っていた。変な話しだが、家を建てる時にも、間取りなんかも決まったものがあると思っていた。だから、土地の大きさや形に合わせてどうにでも作れると知った時にはちょっとびっくりした。
そんな風に何でも決まりがあって、その決まりに合わせて生きていないといけないと思っていた。そしてその決まりを守れない人は駄目な人間だと思っていた。
コリント
この手紙ではパウロはコリント教会が抱えている問題に対して答えている。そしてパウロはキリストの再臨が間近に迫っていると思っているらしい。7:29では、「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。」と書かれているように、それまでの短い時間をどう過ごすか、という考えの基に書かれているようだ。しかし実際に再臨はすぐに来なかったわけで、それをパウロが知っていたらきっと違った答えになっていただろうと思う。
コリントの教会の抱えていた問題は、クリスチャンは結婚すべきでないと考える人たちがいたり、結婚していても性的な関係を持つべきではないと考える人がいたり、離婚すべきだと考える人がいたり、片方が異教徒だと結婚は解消されるべきだと考える人がいたりしたということらしい。
当時のギリシャでは、肉体や肉体に関わることを蔑む傾向があったそうだ。そこで、肉体は全く無意味だからどう使っても構わないし、本能や肉欲を充分満足させても全然悪くはない、という考えもあった。それと反対に、肉体は悪であるので、肉体を抑圧しないといけない、肉体の持っている本能や欲望を否定しないといけない、というふうな考えもあったようだ。そしてコリントの教会では、そんな考え方にも影響されていたのだろうと思うけれども、完全なクリスチャンになるためには、肉欲を断ち、結婚することを拒否しないといけないと言い出した人たちがいたようだ。
そういう考え方に対してパウロは、そんなことはない、結婚しても構わないと答えている。独身でいて欲しい、とは言っているけれども、人はそれぞれ賜物をいただいているのだから、人によって生き方が違う、と言っている。
人生いろいろ?
人生も決まった生き方があると思っていた。決まった生き方というか、正しい生き方というようなものがあると思っていた。大学行って会社に入って、結婚して子どもを二人か三人持って、、。その程度しかなかったけれど、まるで政府がよく言う夫婦と子ども二人の標準家庭のようなイメージを漠然と持っていた。そしてそれから外れることは駄目なこと、落ちこぼれることのように思っていた。
そんな考えがあるもんだから、登校拒否をするなんて文字通りの落ちこぼれで、それは正しい人生からも落ちこぼれてしまったかのように思っていた。
でも、案外落ちこぼれてなかったら、ずっと標準家庭こそが正しい生き方というような気持ちを持ち続けていたかもしれないと思う。そこからそれた人を駄目な人、落伍者という目でずっと見ていたんじゃないかと思う。と言いつつ、今でもいろんな人に対して落伍者という見方をしてしまうところもあるところが卑しい。
人生いろいろ、って言葉が流行したことがあった。確かに人生いろいろだ。いろんな人生がある。いろんな人生があって当然だと思う。なんとなく理屈ではそうなんだと思うようになってきた。けれども骨身に沁みてそう思っているかといとあまりそうでもない気がする。
同じにしろと言われることには反発したくなる。
学校の制服はどうして必要なんだろうか、なんて思う。男たちはどうしてみんな背広を着ているんだろうなんてことも思う。こうしないといけない、こうするんだ、これが当たり前だ、こうすることが当然だ、これが正しいんだと押しつけられることには、本当にそうなんだろうかと思うことがよくある。そんなに押しつけてくれるなと思う。
でも案外同じような見方で周りを見ているのかもしれないと思う。
いろんな生き方があるんだから、と思うけれど、自分の持っているイメージの外にいる人、想定外の人に対しては、なかなか認められない面がある。
男性の好きな男性もいるし、女性が好きな女性もいる。身体は女性だけど気持ちは男性の人や、身体は男性だけど気持ちは女性の人もいる。そういう人は変人だと思っていた。おかしい人、気持ち悪い人のように思っていた。今でも思っているかも。
独身の人に対して、結婚しないの? どうして結婚しないの? と聞く。子どものいない夫婦に対しては、どうして子どもがいないの? 作らないの? できないの? なんて聞く。それを何気なく、ほとんど挨拶代わりのように聞くことが結構ある。ある人は、どうして自分が妊娠できないかという自分の肉体的なことをいちいち人に説明することがとても苦痛だと言っていた。
しかし、教会も同じような見方をしてきているんじゃないかと思う。
夫婦と子ども二人、という標準家庭が本来の姿である、というような見方をしてきている。そしてそれ以外の人たちを、一人前とは見ないような見方をしてきたのではないかと思う。どうしてそうなのか、なぜそうなのか、と質問して責めて、いつしか教会に来なくなるなんてことがよくあるみたいだ。
風貌の変わった人が来ると確かにびっくりする。変わった考えの人が来ると構えてしまう。案外私たちは、正しい道を教えてやらないといけないと思いすぎているのかもしれない。教えてあげれることはあるかもしれないけれども、それよりもまずはその人そのものを受けとめること、その人の話をじっくりと聞くこと、その人を受けとめていくことこそが大事なんだと思う。それが出会いというものなんだろうと思う。だから教会はクリスチャン製造工場ではなくて、その人のそのままを受けとめていくところではないかと思う。
賜物
教会とはこうあるべき、牧師とはこうあるべき、クリスチャンとはこうあるべき、というあるべき姿に何もかもあてはめようとし過ぎているのではないかと思う。周りの人も、そして自分自身も、枠にはまらないといけないと思いすぎているんじゃないかと思う。
7:7「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」
神からいただいている賜物を活かすことが大切なのだ。どこかの教会と同じにする必要はないし、そんなことしてもあまり意味はない。どこかの牧師と同じことをしようとする必要もないし、立派なクリスチャンと同じことをしないといけないわけではない。それぞれに賜物を貰ってやっているんだから、私たちは私たちに貰っている賜物を活かすことが大切なのだ。私たちの教会は私たちの教会らしくやることが大切なのだ。
私たちはそれぞれに生き方が違うように造られ、違うようにそれぞれに賜物を貰っている。だから同じにしていてはいけないのだ。違ってないといけないのだ。違った者同士が、その違いを神から与えられた違いとして受けとめ合って集まる所、それが教会なんだろうと思う。神にそのままに愛されていることを一緒に喜ぶ所、それが教会なのだ。