前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「あなたはどうなの」 2007年9月9日
聖書:マタイによる福音書 5章27-30節
聞いているとおり
イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」と語る。これは旧約聖書の十戒に出てくる戒めとして、よく知られていたようだ。
今の聖書の出エジプト20章に十戒が書かれている。その十戒の7番目の戒めとして、『姦淫してはならない。』というのが出てくる。
そして具体的にどういう場合が姦淫の罪に当たるのかということが、レビ記20章10節以下に出てくる。
20:10 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。
20:11 父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
20:12 嫁と寝る者は両者共に必ず死刑に処せられる。この秩序を乱す行為は死罪に当たる。
妻と姦淫する時には、妻も相手の男も死罪になるということになっている。実際には男は免罪されることも多かったそうだ。それにそもそも妻が夫でない男と関係を持つ時には姦淫の罪となるとされているけれども、夫が夫のいない女と関係を持つ時には、罪となるとは書かれていない。
当時は男性中心の社会で、妻は夫の所有するもの、夫の財産というふうに考えられていたところがあったようだ。
十戒の姦淫してはならない、の続きを見ると、
「20:15 盗んではならない。
20:16 隣人に関して偽証してはならない。
20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
となっている。隣人の妻が男女の奴隷、牛、ろばと並んで隣人のものとなっている。
だからここで姦淫の罪に問われるということは、誰かの所有物を盗むこととおなじようなことと考えられていたようだ。
だからどういう場合に姦淫となるかと書かれている律法には、妻が姦淫する時のことしか書かれていない。夫が姦淫しても相手が誰かの妻でなければ問題とならなかったようだ。姦淫することは、女性の夫に対する罪と考えられていたようだ。
だからイエスが、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」と言った時も、まわりの誰もが誰かの妻が誰かと関係した時という思いを持っていたことだろう。
思い
ところがイエスはとんでもないことを言う。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
女の人を見て何も思わない男なんていないんじゃないのか、みだらな思いを持って女の人を見る生き物を男と言うのではないかと思う。だからできもしないことをイエスは求めているんだろうかと悩んでしまう。
姦淫なんてことには自分は全く関係ない。人の妻と関係するようなことはしていない自分は、姦淫するななんていう戒めとは無縁である、と思っている男たちにとっては衝撃的な言葉だったに違いないと思う。
ほとんどの人は自分は姦淫の罪なんてこととは無縁だと思っていたであろう。そんな罪を犯すのは余程物好きな人間か、余程欲望の強い人間か位にしか思っていなかったに違いないと思う。
今でも姦淫なんてよそさまのことと思う人が多いだろうと思う。ところが、みだらな思いで他人の妻を見る者、なんて言われると途端に自分のことになってくる。そしてそう思うものは心の中でその女を犯した、なんて言われるとドキッとしてしまう。そんなふしだらなことをする者はけしからん、そんな穢らわしいことをしてはいけません、なんて他人事だと思ってるから殊更相手を責めたりする。
しかしイエスはそんな私たちに、あなたはどうなのかと問いかけているようだ。あなたは関係ないのか。あなたにはそんな思いのかけらもないのか、そう言われているようだ。
あなたは?
ヨハネによる福音書8章1節以下には姦通の現場で捕らえられた女の話が出てくる。
「8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
昔、死体は生きている、だったか、死体は語る、とかいう監察医の人が書いた本を読んだことがある。その中で、運転手と同乗者の二人とも亡くなった交通事故のことが書かれていた。片側の親が相手側に、あんたの所の車なんだから運転していたのは当然お宅のこどもに違いない、一体どうしてくれるのか、これだけ慰謝料を払えとか何とか言って相手側を散々責めていたそうだ。監察医はどういう風に亡くなったかなんてことを解剖して調べるそうだが、よくよく調べて見ると運転していたのは責めていた側の子どもだった、なんてことが書いてあった。
相手側が全面的に悪い、こちらの全く落ち度がない、なんていう言わば絶対安全地帯というようなところに立つと、人間は相手をとことん責めてしまう。
男は律法的には姦淫の罪に問われることはほとんどない安全地帯にいると思っていたようだ。そして罪人を見つけては責めていたようだ。
しかしイエスは言う、本当にそうなのか、あなたは関係ないのか、あなたは潔白なのか、あなたに罪はないのか、と。
イエスこそ、罪を責めてもよかったはずだ。なのにイエスは責めなかった。
教会は潔白なのか。教会は罪とは関係ないのか。教会に来ている者は俗世間の者と違ってきよいのか。そうじゃないだろう、とイエスは言われているような気がする。教会に来ている者は特別なのか。そうじゃないだろう、と言われているような気がする。
教会の目標は罪のない人間になって、罪ある者たちを裁くことではない。あえて罪を犯す必要はないが、だからと言って罪と無縁ではいられない。みだらな思いを全く持たないで女性を見ることなどできない。みだらな思いを消し去ることなどできない。
だから私たちの目標は罪を消し去ることよりも、罪ある者として、罪ある者と共に生きること、罪に苦しむ者と共に生きることだろう。私たちがすべきことは、お前はこれができてないじゃないか、と言って相手を責めることではなく、できない苦しみを分かち合って生きることだろう。罪を責めることではなく、罪に苦しむ者と共に苦しむことだろう。