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礼拝メッセージより
「向かい合う関係」 2007年9月2日
聖書:マルコによる福音書 10章1-12節
試み
ファリサイ派の人たちが、「イエスを試みようとして」イエスに離縁のことを質問した。教えを受けるためではないらしい。イエスはモーセは何と命じたかと答える。ファリサイ派の人々は、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と答える。確かに申命記24: 1に 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と書いている。
この「恥ずべきこと」とは、基本的には姦淫するということだったそうだが、結局はその解釈はどんどん広がっていって、夫が自分勝手にどんなことでも理由にできた。
イエスは、「あなたがたの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いた」という。夫が妻を気に入らなくなったら簡単に離縁する、というようなことがあったために、夫の身勝手で離縁することが多かったために、なるべくそうならないようにこんな掟を書いたということだろう。
続けてイエスは、「天地創造の初めから、神は男と女とに造られた、それゆえに人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである」という。ファリサイ派の人々は、離縁していいのかどうかということを聞いたけれども、イエスは結婚とはどういうことなのかということをまず問いかける。
人間が男と女であるのは、神の創造によるのだ。それはお互いを尊重し合い、一体となり助け合うためなのだ、と言う。
共同責任
だからイエスは、「神が合わせたものを、人は離してはならない」と言った。会わせた、とは共のくびきにつないだ、という意味だそうだ。二頭の牛が一緒に軛につながれて仕事をするように、一緒になったのだ、という。さらに、11節「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる」。離婚をするものは姦淫をするのだ、と言う。男も罪を犯すことになる、という。
当時は男社会、今でもそうだが 。男の勝手になった。離婚をすることで問題となるのは女の罪で、男は全然関係なかった。しかし、イエスはそういうことではない、という。女が罪になるなら、男も同じだ、というのだ。ユダヤの社会では妻の姦淫は問題になっていたが、夫の姦淫は全く問題になっていなかった。離縁状を渡しておけばそれで全てが解決すると思っていた。イエスは、女たちの罪ばかり問題にしているが、お前達男も同じなのだ、と言っているということだ。
自分たちには関係のない、何の痛みもないところでの議論を楽しんでいたであろう男たちにとって、火の粉が自分に掛かってきたような気持ちだったのではないか。
神が合わせたものを離してはならない、ということこそが神のみ旨なんだということを、イエスは主張する。律法によって赦されているから、それは権利なんだ、してもいいんだ、という考えを当時の男たちは持っていた。そして当然そんな思いで結婚もしていたということだろう。そんな結婚は神のみ旨ではない、分かちがたい一つの肉になるような思いで結婚することこそが神のみ旨なのだと言っているようだ。だから、離縁状さえ渡せば簡単に別れられる、そんな思いで別れることに対して、そしてそんな思いで結婚することに対して、イエスは、そうではないのだ、と言っているようだ。
離縁された元妻の取る道は二つ、父の家に戻るか、外で客を取るか、つまり自分の体を売るかしかなかったそうだ。離縁されるとその妻は、一気に生活苦になる。歳を取ればとるほど苦しくなる、下手をすると餓死する、そんな情況に追い込まれていったそうだ。そういう風になることが分かっていながら、離縁すること、どうやったら律法に違反しないで、つまり罪と認められないで離縁できるのか、というようなことを考えていることに対して、それは間違っていると言っているのだろう。
イエスは離縁すること自体が悪いとか罪だとか言っているわけではないようだ。そうではなく、男が女を自分の所有物のように考え、気に入ったら手に入れて、気に入らなくなったら捨ててしまう、そういうことこそ罪だと言っているようだ。
やりなおし
離婚は悪いことだという思いがある。罪なのだということも聞いたことがある。しかし本当にそうなのだろうか。イエスは、離婚自体が悪いと言っているのではなく、女性をただ単に自分の所有物のようにして結婚し、物を捨てるように、その後の女性が路頭に迷おうがどうしようが知らん顔をして離縁すること、そのことを悪い、それこそが罪だ、と言っているようだ。離縁したらその途端に女性は食べることにも困ることは目に見えている。そんな妻を離縁することこそ罪だと言っているのだろう。
現実に離婚することもある。離婚したものは心に痛手を負っている。離婚した人たちは誰もが傷ついている。結婚することよりもはるかに大変だと誰もが言う。そして悪いことをしている、罪を犯しているという思いがあれば尚更辛い思いをしていることだろう。そんな人たちに教会はどう接するのか。
間違ったことをしたから、そいつのことは攻めても苛めても差別してもいい、ということにはならないだろう。カルト宗教を脱会してきた人の話を聞いたことがある。その中で、ある子供とお母さんがお布施をして家屋敷もなくしたが、脱会して戻ってきた。その人が帰ってみると、親戚が集まってきていて、その人に向かって、ああ恥ずかしい、と言って攻めたそうだ。そのお母さんはすいませんと言って頭を下げるしかなかったそうだ。
なんだか悲しくなった。人間てのはそんなもんなんだろうか。この親子はやっとの思いで帰ってきた。でも親戚にとっては一家の恥でしかないのか。
離婚した人にとっても、そして社会から少しでも落ちこぼれた人にとっても、まともに、きれいに生きて来なかった者にとっては、この社会はあまり居心地のいい社会ではないと思う。社会と言うよりも、私たちの教会、私たちの家庭は、そういう人たちにとってやすらぎの場となっているのだろうか。
苦しみ者と共に、傷つき悩む者とイエスはいつも一緒にいた。人生に挫折した者とともに一緒にいた。イエスは、遊女は律法学者よりも先に天の国に入ると言われた。この遊女の多くはあるいは離縁された妻たちだったのかもしれない。離婚することが罪ではなく、人を大切にしないこと、人を傷つけること、それこそが罪なのだと思う。挫折した者や失敗した者を、尚痛めつけることこそが罪なのだと思う。
隣人を愛すること、大事にしていくこと、特に弱く小さい人たちのことを大切にしていくこと、イエスはそうしてきた。そして私たちにもそうするように言われている。