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礼拝メッセージより
「主よ、助けてください」 2007年8月26日
聖書:マタイによる福音書 14章22-33節
心配
僕の人生の大半は心配で出来ているんじゃないかと思うことがある。思えばいろんなことを心配してきた。小学生の頃から、授業中に先生に指名されたらどうしようといつもびくびくしていた。間違うことはいけないことだと思っていた。自分は優秀な子どもじゃないといけないと思っていた。いつも優等生でいないといけないと思っていた。だから授業は緊張の連続だった。図工の時間に教室の外で絵を描く、なんて授業が一番安心できた。だから基本的に学校は嫌い、勉強は嫌いだ。
それなのに、表向きは良い格好をしてしまうので、無理が重なって、高校になってから破綻して登校拒否をした。その結果教会に行くようになった訳だけど。
この心配症は大人になっても続いていて、未だにいろんなことを心配している。心配しすぎだよなと思いつつ心配してしまう。何日も前から心配ばかりしている。明日の心配と、明後日の心配と、明明後日の心配と、その先の心配と、何日分もの心配を担いで歩いている感じ。一日分の心配なら大したことなくても、何日分もの心配になると毎日しんどい。そのくせ、その心配事を人にも話せない。なぜなのかよく分からないけど、自分のことを人に話すのが下手だ。自分の自慢を話すのはいいけれど、自分の心配事や自分の失敗したことや悩み事を話すのが下手だ。そんな弱みを見せてはいけないような気になっている。
牧師になってもいい牧師じゃないといけないという思いが強くて、そうじゃない自分は駄目な牧師で、こんな牧師では駄目なんだ、こんな自分では駄目なんだという気持ちが強い。最近こそ多少はこれでもいいというか、これでいくしかないかなと思えるようになってきたかなとは思うけれど。
湖の上
今日の聖書では、イエスの弟子たちがガリラヤの海の真ん中で逆風と戦っていた。強い向かい風が吹いているために、向こう岸に向かってなかなか前にこぎ出せなかったようだ。かつて嵐にあったときは、イエスが共にいて波を静めてくれた。しかし今度はイエスは舟に乗っていない。暗闇の中で孤独な戦いを、弟子たちだけで戦っていた。
そして夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行ったという。果たしてこんなことができたのかと、昔からいろいろと議論がなされてきた。本当にそんなことがあったのだろうかと思う。
しかし弟子たちは、海の上を歩くイエスを見て幽霊を見ているのだとおびえて、恐怖のあまり叫び声をあげたというのだ。イエスに従ってきて、いろんな業もみて、いろんな話しも聞いてきた弟子たちだったが、逆風にあって一晩苦労していたためなのか、イエスだと分からなかったようだ。水の上を歩いてこられたら誰でもそう思うのかもしれないけれども。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、イエスは恐れる弟子たちにそう話しかけた。逆風にあって、自分たちだけではどうにもできずにいた弟子たちに向かって、イエスは、大丈夫だ私がここにいる、と言われたのだ。
このあと、ペトロがイエスの力を見、イエスの言葉を信じて、自分も水の上を歩こうとして、溺れそうになる。純粋というか単純というか、そんなペトロらしいエピソードだ。ペトロは、「来なさい」というイエスの言葉に従ってイエスのところへ行こうとする。ところが、風を見て恐くなると沈みそうになってしまったというのだ。
しかしそんなペトロをイエスはすぐに手を伸ばして捕まえてくれた。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った。
そして、イエスが船に乗りこんだ時に風が止み、弟子たちは改めてイエスの力を知ることになった。
イエスを見る
逆風吹きすさぶ、というような状況に追い込まれることが私たちにもある。何をやっても前に進まない、何をやってもうまくいかないと思うときもある。弟子たちは夕方から夜明けまで舟を漕いでどうにかして舟を進ませようとしていたがうまくいかなかった。かつて嵐を鎮めたイエスもそこにはいなかった。しかしイエスは離れてはいたけれども、弟子たちのことを放っておいたわけではなかった。まるで知らん顔ではなかった。苦闘する弟子たちのところへ自分から近づいていくのだ。水の上を歩いていくなんてことをしてまで弟子たちのところへいき、弟子たちを救うのだ。
ペトロはイエスの言葉に従い水の上を歩いていくが、風を見た途端沈みそうになってしまったという。イエスを見つめている間は大丈夫だったのに、イエスから目を離し風を見てしまうと沈みそうになってしまった。これはとても象徴的なことだ。
私たちも逆風の中を生きている。いろんな逆風が吹くときがある。そんな時でもしっかりとイエスを見ていけば大丈夫なのだろう。安心しなさい、というイエスの言葉をしっかりと聞いていけるならば大丈夫なのだろう。イエスから目を離すことで、そして風を見ることで恐くなり沈みかけてしまう。しかし風ばかり見てしまうのも私たちの常だ。大変な問題を抱えているとき、私たちはついついその問題ばかりを注目してしまう。いつもいつもその問題が頭の中を駆けめぐってしまうことがある。
昔テレビのコマーシャルで、次の車検にいくらかかるかが心配で心配で、ズボンをはかないでステージに立ってしまうというのがあった。心配事で心の中を占領されてしまうと心はどんどん沈み込んでしまう。僕なんか、大した問題じゃなくても、そのことばかりが頭の中を占領して、何もする元気もなくしてしまったりする。
確かに心配なことはいっぱいある。みんなそれぞれに心配なことを抱えているだろう。どうにもこうにもうまくいかない、全く前に進めない、そんな重大事を抱えているかもしれない。そんな重大事に、心配事によって沈みかけている私たちをもイエスはきっと手を伸ばして捕まえてくれているに違いない。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と声をかけてくれているに違いない。心配事しか見えない、うまくいかないことがらしか見えない、そしてイエス自身を見ていない私たちに向かって、イエスは、安心しなさい、私はここにいる、私を見なさい、といわれているのではないか。信仰の薄い者よ、とは言われているけれども、その時にはもうすでにペトロの手をしっかりと捕まえているのだ。この言葉はペトロを責める言葉ではないような気がする。
主よ、助けてください
ペトロは風を見て恐ろしくなり沈みかけた、しかしそこで「主よ、助けてください」と叫んだという。助けてくれとすぐに言うところがペトロの単純な所でもあり、良いところでもある。
助けてくれと言える相手がいることはとてもいいことだ。
昔、女子高生コンクリート詰め殺人、とかいう本を読んだことがある。女子高生を何人かで監禁していたずらして殺してしまい、結局コンクリート詰めにしてしまうという話しだったと思うが、その犯人の若者たちの裁判の時だったか、若者たちの親の話しが出てくる。本を読んでいると自分の子どもが殺人犯になってしまった親の苦しみが伝わってくるようだった。現に事件を起こしてしまっている、とんでもない事件を起こしてしまっている、相手は殺してしまっている、親は苦しくて苦しくてどうにもならないという感じだった。それを読みながらふと思ったのが、この親たちはどうして祈らないのだろう、ということだった。どうして祈らないのだろう、祈るということを知らないのだろうか、祈る相手がいないのだろうかと思った。
助けてくれ、と言える相手がいること、そう祈る相手があることはとても幸せなことなのだと思った。どうにもならないと思えるような苦しみもある。そんな時に、助けてくれと祈れる相手があることはどんなに幸せなことだろうかと思う。いつも共にいる、いつも聞いている、そう言ってくれる相手がいることはどんなに幸せだろうかと思う。
僕は時々嫌な夢を見る。学校のテストが解けない、これじゃ単位が足りないとか、出席日数が足りそうにない、また留年してしまうというような夢だ。高校と大学と入り交じったような夢で、いまだに高校2年生で、いつになったら卒業できるのか分からない、なんて夢を見て、目が覚めてしばらくしてから、もう高校も大学も卒業して今牧師をしているんだと分かって安心するなんてことが時々ある。
夢というのはとてもやっかいだと思う。戦争でいっぱい人を殺した人が、地元に帰ってからも夢でうなされるなんて話も聞く。取り返しのつかないことをしたという重荷がそうさせるのだろうか。目覚めている時なら安全な所へ逃げていける。でも夢の中で追いかけられたら逃げようがない。
逃げようがない重荷を背負わされたら私たちはどうしたらいいのだろうか。どこに助けを求めたらいいのだろうか。結局は神に求めるしかないんだろうと思う。主よ、助けてください、って言うしかない。
私たちにはイエスがいる。どんな大変なときでもイエスが共にいてくれる。助けてください、と言うことのできる相手がいつも共にいる。
天と地とあらゆるものを支配している、その方が、安心しなさい、恐れることはないと言ってくれているのだ。私たちの目でそのイエスの姿を見ることはできない。けれどもいつも、どこにいても共にいる、それがイエスの約束なのだ。目に見えないところで私たちを支えてくれている、そのイエスの声を聞いていこう。