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礼拝メッセージより
「神の宣言」 2007年8月19日
聖書:詩編 85編9-14節
解放
補囚されていたイスラエルの民がバビロンから戻り、エルサレムの神殿を再建し主を賛美した、その賛美の一つがこの詩編の85編だそうだ。最初の所に賛歌とあるようにきっと曲がついた讃美歌だったんだろうと思う。
バビロン補囚から解放されたことを喜び、そうしてくれた神に感謝する賛美だ。
イスラエルの民は自分たちの神に背き、神の命令を聞かなかった。神の言葉を聞いてそれに従うということをしなかった。かつてはエジプトで奴隷として働いていた先祖を解放してくれた、そういう神だった。けれどもいつしかその神の言葉に従うよりも、他の神々の方が魅力的に思えてきたのだろう。聖書の神の言葉を聞いてそれに従うことが大した意味がないと思えてきたのかもしれないと思う。
イスラエルの民がバビロンへ補囚されたのも、バビロニアという強い国に負けてしまったからで、補囚から解放されたのもペルシャという国がバビロニアを倒してくれたからだ、という見方もできる。目に見えることだけからみればただそれだけのようにも見える。
国を守るためには、どこの国と仲良くしておくのがいいのかということを考えておけばいいんじゃないのか、そんな処世術を磨くことが弱い国の生きる道だと考えたとしても不思議ではない気もする。国が滅びたのは自分たちが弱かったからで、弱い自分たちが強い国の中でうまく振る舞えなかったからだ、と考えるのが普通じゃないかと思う。
イスラエルの人たちは国が滅びバビロンへ補囚されてから、どうしてこんなことになったのかと考えたようだ。なんでこんなことに、なんでこんな苦しい目に遭うことになってしまったのかと考えた。
きっと長い間、いろんなことを振り返り考え、そしてたどり着いた結論が、自分たちが神の命令に従ってこなかったということだったようだ。
自分たちは神に選ばれた民だと思っていた、奴隷として働かされていたエジプトからも助け出してもらった、なのにいつのまにかこの神の声を聞いて、この神に従うことをしなくなってきた。今バビロンに補囚されてきている原因はこれだった、と気が付いたようだ。今の旧約聖書の多くはこのバビロン補囚の時代にまとめられたそうだ。
聞こう
詩編85:9では「わたしは神が宣言なさるのを聞きます」とある。岩波訳では、「私は聞こう、何を神ヤハウェは語るかを」となっている。
神の声を聞いてこなかったという反省から、神が何を語るのかを聞こう、と告げる。もちろん天から声が聞こえてくるわけではなく、もうすでにいろんな形で届けられている。聖書に残されているような、そういう神の声をもういちどしっかりと聞いていこうとしている。
国を強くするよりも、世渡りの術を磨くよりも、何よりも大事なのは神の語ることを聞くことだ、というのがバビロン補囚を通しての反省だったようだ。
神の導きは見えない。神の助けも見えない。神が目の前に現れて、こうしなさい、これはしてはいけない、なんて言ってくれるわけではない。これはあなたへのプレゼントです、と言って私たちの欲しいものをすぐに与えてくれるなんてこともない。
自分の願いどおりになるわけでもない。苦しいこともいっぱいある。一体神さまってどこにいるのか、どうして助けてくれないのかと思うようなことも多い。神さまなんているんだろうと思う時もある。神さま信じることになんの意味があるんだろうなんて思うこともある。いっそ自分の好き勝手に生きた方が楽しいんじゃないかと思ったりする。
こんな神よりも、なんとか能力開発講座の方が自分のためになるんじゃないか、なんとかの教えの方がいいんじゃないかなんて思ったりする。
イスラエルの人たちもそうだったんじゃないかと想像する。聖書の神が本当に導いてくれているのか、この神の命令聞いてたってどうにもならないんじゃないかなんてことを考えて、いつの間にか神の言葉を聞くことをしなくなっていたんじゃないかと思う。
しかしバビロン補囚を経験することで、神の言葉を聞くことの大切さに気づいたのだろう。それまでは聞き飽きたような言葉だったのかもしれないと思う。意味もないと思うようなことだったのかもしれない。でもこの時初めて神の言葉の大切さを知ったのだろう。
宣言
そこで、聞こう神の語るのを、と言うわけだ。
そこで聞く神は平和を宣言すると言う。岩波の訳では平安を語るとなっている。平和を宣言する、平和を語るとはどういうことなんだろう。
平和でいるように、平安でいるように、そのことを大事にするようにということなんだろうか。それは周りとの、隣人との関係を平和に保つようにということなのかなと思う。
自分が金持ちになりたい、自分が強くなりたいと思う。あるいは自分の国が豊かに、自分の国がどこにも負けないようにと思う。
今でもそんな風潮がある。個人的なことでもそうだし、国と国ということでもある。けれどもそんなところにけんかが起こり、争いが起こり、戦争が起こってきた。自分だけが、自分たちだけがよければと思うところでは、結局は誰も幸せにはなれないのだろう。
多くの教会がかつての戦争に協力してきた。バプテスト教会も戦争に協力してきた。日本が勝つために日本が豊かになるために戦争に勝つことが大切だと思ってきたのだろう。憎きあいつらをやっつけないといけないと思ってきたのだろう。確かにそんな時代だったようだ。
しかしそこでは神の語ること、神の言葉を聞くことはできていなかったのではないかと思う。
戻らないように
神が平和と宣言するのは、自分の民、主の慈しみに生きる人々が、愚かなふるまいに戻らないようにするためだという。
愚かなふるまいをしていた。愚かなふるまいをしていたために国が滅び、多くの人がバビロンは補囚されていった。
苦い経験をした。痛い思いをした。なのにまた同じような愚かなことをするようなことがないように、神は平和を宣言するという。神殿を再建してからどうやらもうすでにイスラエルは愚かなふるまいをしている、愚かなことを繰り返しているということらしい。
私たちはどうなのだろうか。戦争で痛い思いをした。けれどまた愚かなふるまいをしてないのだろうか。神の語ることを聞いているだろうか。平和であるように、平安であるように、という神の宣言を聞いているだろうか。