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礼拝メッセージより
「なぜ戦争をするのか」 2007年8月12日
聖書:イザヤ書 5章1-7節
イザヤ
イザヤは南王国ユダのエルサレムで預言者として活躍した。当時は経済的に繁栄し、貧富の差が拡大して、官僚や裁判官が賄賂をもらったり利権を守ろうとしたりしていたそうだ。
また外国からの脅威にさらされていて、アッシリアやバビロン、エジプトなどの強い国がまわりにあって、どの国と仲良くしておくのがいいのかというようなことで揺れていたらしい。自分たちの国を守るため、自分たちの体制を守るため、自分たちの利権を守るためにいろんな駆け引きをしていたようだ。
形の上では宗教的には熱心であった。エルサレムには神殿があって、献げ物はしていた。自分たちのことを守ってもらうためにも、一所懸命に祈ってもいたのだろう。いろんな儀式も祭りもつつがなくやっていたのだろう。そうすることが神に繋がることであって、神に愛されることであって、自分たちを守ってもらえることになると思っていたのだろうと思う。
周りに強い国があるからこそ余計に宗教的にも熱心にならざるをえないような面もあったんだろうと思う。
ぶどう畑
しかしそんな時にイザヤは神の言葉を告げる。
よいぶどうを実らせるために、よく耕して石を除いて、良いぶどうを植えた。そして真ん中に見張りの塔を立てて酒ぶねを掘って、一所懸命に世話をした。なのに実ったのは酸っぱいぶどうだった。
折角一所懸命に世話をしたのに、酸っぱいぶどうしかできなかったので、この農夫はぶどう畑の囲いを取り払って焼かれるにまかせ、石垣も崩して踏み荒らされるにまかせる、もう見捨てるという。
このぶどう畑はイスラエルのことで、農夫は神のことを指している。神はイスラエルに正義と正しい裁きが行われるようになることを期待したのに、実際にそこにあったのは流血と叫喚だったという。そして神の期待に応えるようなよいぶどうを実らせない、全く期待はずれに終わっているイスラエルを神は見捨てるという。そして実際この後イスラエルは滅ぼされてしまう。
当時の状況
具体的にどんなことをあったのかが8節以下に書かれている。そこには災いだ、という言葉が繰り返し言われている。
5:8 災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。
5:9 万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。
5:10 十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫/一ホメルの種に一エファの実りしかない。
5:11 災いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。
5:12 酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない。
5:13 それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇きで干上がる。
5:14 それゆえ、陰府は喉を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。
5:15 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。
5:16 万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。
5:17 小羊は牧場にいるように草をはみ/肥えた家畜は廃虚で餌を得る。
5:18 災いだ、むなしいものを手綱として、罪を/車の綱として、咎を引き寄せる者は。
5:19 彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」
5:20 災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
5:21 災いだ、自分の目には知者であり/うぬぼれて、賢いと思う者は。
5:22 災いだ、酒を飲むことにかけては勇者/強い酒を調合することにかけては/豪傑である者は。
5:23 これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し/正しい人の正しさを退ける。
5:24 それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。
腐敗がはびこり、賄賂が横行。神を忘れ栄華に酔っていたらしい。具体的には所謂弱い人間のことを配慮せず、金持ちは朝から酒を飲み、自分だけ、自分たち仲間だけのことを考えていた時代だったようだ。自分の財産を守ることに一所懸命になって、自分たちの周りの者たちのこと、苦しんでいる人たちのことにはまるで目が向かないような情況だったようだ。
しかし彼らも全く神を無視してそんなことをしているわけではなかったようだ。イザヤ書の1章を見ると彼らは献げ物もしていたし祭りもしていたし、祈ってもいたようだ。しかし苦しみ者たちのことを放っておいてそんなことをしても神はそんなものはよろこばないと言われている。
「1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。」なんて言われている。
自分のことばかり、自分の所有するもののことばかりを考える、それを守ることばかりを考えることは神の意に沿わないことことだ。
そして実はそれが戦争の根本でもあるように思う。
愛がないこと、隣人とのつながり、絆がなくなること、そこに争いの種があるのだろう。
神は互いに愛し合いなさいと言われている。