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礼拝メッセージより
「弱い者になる」 2007年8月5日
聖書:コリントの信徒への手紙一 9章19-23節
自由
昔聞いた話。ある女性が結婚した相手に子どもがいた。その子とのコミュニケーションがなかなか取れないでいたが、やがてその子がバイクに乗るようになった。暴走族のようにブンブンいわせてしょっちゅうバイクで走っている。母親はその子の気持ちが分からなくて、どうしたらいいかと悩んでいた。そこである日子どもに言ったそうだ。「バイクに乗るのがそんなにいいのか。そんなにいいならお母さんもその良さを知りたいから後に乗せてくれ。」そして本当にバイクの後に乗せてもらって走ったそうだ。そうするとバイクに乗る気持ちよさが少し分かったような気がして、親子の関係も少し親密になったようなことを言っていた。
真理
このコリントの信徒への手紙一の8章には、偶像に備えられた肉を食べていいかどうかということについて書かれている。当時のコリントでは、他のギリシャの都市と同様に、ギリシャの宗教の強い影響があった。祭りの時には、ギリシャの神々にささげられた物を、後でみんなで食べることが多かったようだ。そんな時に、偶像にささげられたものを食べることが許されるのかどうかということがコリントの教会の問題となっていたらしい。
知識を持っているという人たち、それは信仰的にいろんなことをよく分かっていると思っている人たちということのようだが、彼らはもともと偶像というもの自体が本当はないものであり、そこにささげたと言ってもそのささげものが汚れるとかどうにかなるというものではないので、それを食べてもいっこうに差し支えないと考えていたようだ。偶像に供えたものを食べると汚れるのは、それを食べたら汚れるのではないかと思うから汚れるのだ、と考えていた。そしてその考え方自体はパウロも賛成している。
けれどもパウロは、この知識が誰にでもあるわけではない、と言う。どんな肉も汚れることはないというのは真理である、しかしその真理に到達できない者もおり、つまりそうは言われてもやっぱり心配だったり気になったりする人もいる。だからそんな人たちのことも配慮しなければいけない、と言うのだ。
教会の人たちは食べても構わないというけれど、本当に偶像に供えた肉を食べてもいいのだろうかと悩んでいる者に対して、コリントの教会の信仰心の厚い人たちは、それは問題ないから食べなさい、どうして食べないのかと言っていたのかもしれない。
パウロは自分は自分である、何者にも縛られていないと言っている。キリストを信じることで、いろんなしがらみから解放されて自由になったということだろう。
今の社会でも、よくわからないけどこれはしてはいけない、こんなことをするのはまずいと言われるようないろんなしきたりや慣習があって、まるで迷信としか思えないようなことにも随分縛られている。そんないろんな束縛から解放されて自由になること、自由を得ることはすばらしいことであり、うれしいことだ。
でも自分が自由になることで、却って周りの不安に思っている人のことを、そんなことどうってことないよ、いつまで心配してんの、心配してもどうにもならないでしょ、なんて言いがち。自分が偉くなったら途端に周りを馬鹿にしてしまうようなところがある。
この肉を食べていいかどうか悩んでいる人に対して、食べてもいいに決まっているから食べるべきだ、と言って食べさせるようなことをしがちである。けれどもそのことでまだいいかどうかはっきりしない人が、気にしながら食べてその後ずっと悩んでしまうとしたらそれはその人を苦しめてしまう。
真理を知ることはすばらしいことだ。しかしその真理を押しつけることで周りを傷つけるとしたら、その真理は一体なんなのだ、とパウロは問いかけているようだ。真理を主張することで、隣人を愛することがなくなってしまったとするならば、その真理はただの独りよがりでしかない、あるいは周りの者にとってはただただ迷惑な真理でしかなくなってしまう。
パウロは、わたしたちを神に導くのは食物ではない、食べないことで何かを失うわけでもなく、食べても何かを得るわけではない、と言う。食べようが食べまいがどうってことはないという。自分がどれほどの真理に到達したかなんてことを競争しても、それを見せびらかせても、そんなのは何の意味もないというのだ。そして信仰の弱い兄弟のためにもキリストが死んでくださった、なんてことも言うのだ。信仰の強いあなた達が見下している、まだまだ駄目だと見ているこの信仰の弱い兄弟のためにもキリストは死んでくださったのだ、愛しているのだというわけだ。パウロは、「それだから、食物のことでわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」てなことも言う。
自分の信じる信仰や真理を自慢するよりも、主張するよりも、弱いと言われる者たちのことこそを大事にし愛すること、それこそが大事なことだと言っているようだ。
自由
そこで今日の9章でパウロは、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と言う。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった、律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになった、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになった、弱い人に対しては、弱い人になった、という。
信仰を持つということは自由になるということでもある。いろんな束縛から解放されて自由になることだ。けれどもパウロはそこで自由だから奴隷になったという。自由だからどんな人とも同じになったという。それはどこへでもその人の所まで出かけていくことが出来るということのようだ。
子どもが暴走族のようになったというときに、子どもを叱りとばすことはできても、その子どものところへ出ていくことはなかなかできない。間違いを犯した人に対して、その間違いを正せ、そして正しいこちら側へ来なさいとは言っても、その人のところまで出ていくことはできない。それが私たちの現状かもしれない。
コリントの教会の信仰深い人たちも同じように思っていたようだ。あなたも聖書を良く読んで信仰深くなって、私たちの域に達しなさいとは思っても、その人と同じ所へ立とうとすることもなく、その人の苦しみも理解できないでいたのだろう。そして自分の立派さや信仰深さを主張するばかりだったのだろう。
弱くなる
パウロは、弱い人に対しては弱い人のようになったという。ここの原語は「ように」という言葉はないそうだ。だから弱い人に対しては弱い人になった、とパウロは書いているそうだ。
強くなることを目指す、それが今の社会だ。力を付けて誰よりも強くなることを目指している。誰にも負けない力を持つことを目指している。そして弱い者を踏みつけてでも、自分がどれほど高くなれるか、立派であることができるかということばかりを考えている。
けれどもパウロは、弱い人に対しては弱い人のなる自由を、すべての人に対してはすべてのものになる自由を持っているという。そしてそれは何とかして何人かでも救うためであるというのだ。そしてそれは自分もともに福音にあずかる者となるためであると言うのだ。
周りの目を気にしてばかりいては、母親が息子のバイクの後に乗ることは出来ない。しかしそれが出来たのは、何とか息子との関係を持ちたい、息子のことを分かりたいという思いがあったからだ。
パウロが弱い者になったのは、弱い者をなんとか救いたいと思ったからだ。そしてそれはパウロにとっては何よりの喜びでもあったのだろう。自分の正しさや立派さを威張ることよりも、その人のところへ出かけていき、同じ所に立つこと、つまりくだらないと思えるようなことで悩んでいる人と一緒に悩み、そんなことどうってことないだろうと思えることで苦しんでいる人と一緒に苦しむということなんだろう。その人の悩みや苦しみを大事にしていくことが、その人を大事にしていくことなんだろうと思う。