前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「見捨てた」 2007年7月29日
聖書:マルコによる福音書 14章43-50節
逮捕
イエスが逮捕される。弟子のユダと、祭司長と長老、律法学者から送られた群衆によって逮捕された。治安維持のためか。あるいは権力維持のためか。表向きは宗教的な理由のためだったが。そのために十分準備し、時間をかけて計画された逮捕劇だったのではないか。剣や棒をもってくるほどの意気込みだった。しかしいとも簡単に捕まってしまった。あっけなく、といった感じ。そこで弟子たちはみんな逃げてしまった。
イエスは大祭司のところへ連れて行かれる。そして裁判にかけられる。いわゆる宗教裁判ということだ。すぐ前の所を見ると、イエスが「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っていた時に弟子たちが眠りこけてしまったと書かれているところから、イエスが連れて行かれた時にはすでに夜中になっていたと思われる。
そして53節以下に裁判の様子が書かれている。夜中なのに最高法院の面々は集まっている。つまりこの時間に裁判を始めるということがあらかじめ決められていたということだろう。だから何が何でもこの時間までには捕まえていないといけなかった。真夜中に、物々しい警備の中で、こっそりと行われたのだろう。しかし何でまた真夜中にあわてて、こっそりとしたのか。自分たちが「ねたみ」のためにイエスを捕まえているという後ろめたさがあったのか。だからイエスが罪にあたる、死刑に相当するという立派な証拠がほしかったのだろう。
そしてこの裁判はすでに判決が決まっている裁判だ。死刑にするため、表向きは正しい手続きをとる。
裁判のことはよく分からないが、検察側に立っている祭司長や律法学者たちは、イエスを有罪とするための証人を連れてくる。しかし証言が食い違っていて証拠にはならない。証拠がなければ釈放となるべきであろうが、そうは問屋が下ろさないのがこの裁判。そんなことでは祭司長、律法学者は引き下がらない。
なんとしても証拠を、という思いからであろうか、また何も答えないイエスの態度にいらだちを募らせていたということなのか、大祭司が直接イエスに質問した。「お前はほむべき方の子、キリストであるか」。多分イエスの答えに大祭司自身びっくりしたのではないか。まさかイエスが自ら証拠になるようなことを言うとは思っていなかったのではないか。
イエスは「そうです」と答える。原文のギリシャ語では、私がそうだ、とわたしこそそうだ、と言ったような強い調子で書かれているそうだ。英語ではI am.となっている。そしてこの言葉が、証拠となる。神を冒涜した罪で死刑、という最初から決まっていた筋書き通りにことは進んでいった。
見捨てた
イエスが捕まえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とさりげなく一文書かれている。仕事も家族も捨てて人生をかけてイエスについていったのだと思う弟子たちだったが、師匠が捕まってしまうとみんな師匠を見捨てて逃げてしまった。
自分の身の危険を感じて逃げたのだろう。相手は権力者なのだ。自分を守るためにとっさに逃げたのだろう。
66節以下には、弟子の一人のペトロが引き帰してイエスの様子を伺いに来たことが書かれている。見捨てて逃げたけれども、やはり気になって見に来たのだろう。しかしそこで周りの者から、お前はあいつの仲間だと言われて、慌ててそうじゃないと言ってしまった、しかも3回も否定したことが書かれている。ペトロにとっては裏切りの上塗りのようなことになってしまった。
イエスはこのあと十字架につけられ処刑されてしまう。弟子たちはイエスを見捨てて、そして見捨てたままでイエスは処刑されてしまう。ところが弟子たちはイエスと出会い、イエスがキリストであると伝え始めた。このイエスこそがキリストである、救い主であると伝え始めるのだ。裏切った自分たちを、尚もイエスは赦してくれ、支えてくれているということを伝え始めた。
しかしそれは弟子たちが自分たちの裏切りを伝えていったということでもある。福音書の中で弟子たちの裏切りが書かれている。ペトロがイエスを知らないと言ったことも書かれている。ということは弟子たち自身が自分の裏切りのことを、イエスを見捨てたことを語っていたということだったんだろうと思う。イエスを見捨てて逃げた、イエスを知らないと言ったということが、実は弟子たちの基盤になっているんじゃないかと思う。そんな後ろめたさを抱えつつ、イエスを伝えていたんじゃないかと思う。
あるいはそれまでは、俺は立派な弟子だ、立派な師匠の愛弟子だなんて思っていたのかもしれない。死んでもあなたについていきます、なんて思っていたようだし、誰が一番偉いかともめたことも書かれている。
しかし自分の師匠をこともあろうに見捨てて逃げてしまったのが、イエスの弟子たちだ。誰が一番だなんて言ってられない情況になってしまっている。死ぬまでついて行く、なんて偉そうなことは言えない情況になってしまっている。
いざというときに、師匠が一番大変な時に見捨ててしまうという、自分の駄目さを、不甲斐なさを、だらしなさをいやというほど見せつけられて、平穏無事な時には偉そうなことばかり言ってたくせに、いざとなったら我先にと逃げてしまうという自分の実体を思い知らされて、弟子たちはみんな打ちのめされたことだろう。
でも、イエスはそんな弟子たちにまた出会っている。打ちのめされていたであろう弟子たちは、復活のイエスと出会い、もう一度立ち上がった。そんな自分たちをイエスは赦してくれ、愛してくれていることを知った。ふがいない、だらしない、臆病な、そんなことも全部含めて、イエスは包み込んで支えてくれていることを知ったんだろうと思う。強いから、立派だからイエスの弟子とされているのではなく、弱いだらしない面も全部含めて、その上で弟子とされていることを知ったんだろうと思う。だからこそ、彼らはもう一度立ち上がっていけたんだろう。
弱さも何もかも含めて全部を支えられている。そこに一番の安心がある。だから弟子たちはその後命がけでイエスを伝えていくことができたのだろう。
私たちも全部支えられている。弱さもだらしなさも、不甲斐なさも、何もかも。