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礼拝メッセージより
「律法主義を超えて」 2007年7月15日
聖書:ルカによる福音書 11章37-54節
ファリサイ派
ユダヤ教の律法を、日常生活において厳格に守ろうとする集団。ファリサイとは分離という意味を持ち、自分たちを律法を守らぬ者たちから分離させるという意味合いが強かったそうだ。
ここでイエスを食事に招いたファリサイ派の人は、イエスが身を清めないことを不審に思った。身を清めるとは具体的には手を洗うことらしいが、この食事の前に手を洗うというのは、律法にあるわけではなく、律法学者の言い伝えによって定められた習慣だったそうだ。律法にはなくても食事の前に手を洗うことが律法であるかのような習慣となっていて、ファリサイ派にとってはそれをしないことは異常なことだったようだ。
内側を
そこでイエスは、「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」なんてことを言った。ファリサイ派の人たちは、肉体も器も清潔にしておくことが神をあがめることになると信じていたようだ。しかしイエスは、器の中にある物を人に施せ、と言う。そうすえばあなたたちのすべてのものが清くなる、と。
では器の中にある物とはなんなのか。そのことが次に語られているのだと思う。ファリサイ派の人たちは薄荷や芸香や野菜の十分の一は献げているが、正義の実行と神への愛はおろそかにしていると言う。薄荷は薬味となり、芸香は香料となったそうだ。当時、芸香はは敬虔な信者でも十分の一を献げることはしなかったそうだが、ファリサイ派の人たちは小さなものまで厳格に十分の一を献げていたそうだ。兎に角厳格に落ち度なく、抜かりなく律法を守る、決められたとおりにすること、文字通り、慣習通りにすること、ファリサイ派の人たちはそれを厳格に守っていた。そしてそうすることこそが神をあがめること、神に従うことだと思っていたようだ。
しかしイエスは、そうやって厳密に細かいことまで一所懸命に律法を守っているのに、正義の実行と神への愛はおろそかにしている、と言うのだ。見えるところ、律法を守るという外側はきれにするけれども、その中身はまるできれいにしていない、十分の一の献げ物はするけれども、その中身、つまり自分自身を献げるということはしていない、だからあなたたちファリサイ派は不幸だと言われる。
さらに不幸が続く。会堂で上席に着くこと、広場で挨拶されることを好むことを指摘される。また人目につかない墓のようだと言われる。墓は死体とに、それに触れることで七日間穢れると考えてられていたそうだ。その墓が人目につかないと気づかないうちに穢れてしまうことになる。つまりファリサイ派は人々が気づかないうちに穢れさせているというのだ。
律法の専門家
そこで律法の専門家が口を挟む。そんなこと言ったら私たちも侮辱することになりますよ、と。
それに対してイエスは、あなたたちも不幸だと切り返す。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない、と言う。
律法の専門家たちは、律法の一語一語から、安息日について、清めについて、献げ物について、慈善と祈りについてなど、これこれこうしなければいけないという規定を作った。安息日には労働してはいけないことになっていたけれども、では何が労働になるかということで、ハンカチを持っていくことは労働になるが、手に巻けば労働ではない、というようなことをまじめに考えていたと聞いたことがある。しかしそんな細かい決まりがいっぱいになると、結局一般の民は決まりにがんじがらめにされてしまっていたのだろう。
続いて彼らに対してイエスは、自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てていることを不幸だと言う。当時は国のあちこちに預言者の墓が建てられていて、人々はその墓に巡礼していたそうだ。そして律法の専門家たちは預言者を尊敬するように熱心に奨励していたそうだ。彼らは預言者の声に耳を傾けて、自分たちの行いを省みることをしないで、ただ祈念碑を作ってそこを巡礼することを奨励していた。それは結局預言者の声に耳を傾けなかったという先祖たちと同じことをしているということなんだろう。
私たち
こうやってファリサイ派は人たちや律法の専門家の悪口を言ってる分には気持ちいい。しかし翻って考えると、もしかしたらこれは自分のことを言われているのではないかと心配している。どれもこれも自分に当てはまるような気がしている。
教会とはこういうもんです、教会ではこうするんです、こうしないといけないんです、というように知らない人たちに教えてやっている、というような気持ちで偉そうに言うことが結構ある。本当に必要なこと、本当に大事なことなら懇切丁寧に教えてあげないといけないけれども、案外どうでもいいようなことばかりうるさく言ってるんじゃないかと心配になってる。
本当に大事なこと、つまり正義と愛の方が後回しになっているんじゃないかとイエスに問われているような気がする。
あるいは、私は収入の十分の一をきっちり献金しているんだと自慢したくなる。なのにあの人は少ししかしてない、もっときっちりしてもらわないと困るなんて思ったり。しかし本当は自分自身を献げることこそが大事なことなのだ。
知識の鍵を取り上げて、自分も入らないし入ろうとする人々も妨げてきた、なんて言われるとまた心配になる。知識に入るとは神のことを知ること、真理を知ることなんだろうか。自分も人も入らないようにしているのではないかと本当に心配になる。
でも真剣に心配しなさいと言われているのかもしれないと思う。外側だけ、見映えだけよくしても何の意味もない。却ってファリサイ派の人たちや律法の専門家のように、他の人を見下して断罪するのが関の山となるだけだ。あなたたちの中身はどうなのか。どのような思いなのか。神が見えているか、神の声が聞こえているか、自分自身を神にささげているのか、イエスは私たちにも問いかけているような気がする。
そこに充実した人生があるのだろう。平安と喜びの人生があるのだろう。そんな人生を送るように神は私たちを招かれている。