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礼拝メッセージより
「いばらの冠」 2007年7月8日
聖書:マタイによる福音書 27章27-31節
無言
もう何十年も教会に行っている人が、このごろ黙って十字架に向かうイエスの姿をよく思う、と言っていた。
捕らえられて処刑されてしまいそうな情況になっているのに、イエスはあまりしゃべらない。必要以上のことは言わない。助かるように弁解することもない。周りの人間がしたいようにさせているように見える。
侮辱
今日の箇所では、総督の兵士から、来ている者をはぎ取られて赤い外套を着せられ、茨の冠をかぶせられ、葦の棒を持たされている。それは王の紫の衣と、王冠と、笏に見立てたものだそうだ。そして兵士達はその前にひざまずいて、ユダヤ人の王万歳と言った。馬鹿にするな、と言いたくなるようなことをされているが、イエスは何も言わない。兵士達は何も言わないイエスが面白くなかったのか、今度は唾を吐きかけ、葦の棒で頭をたたき続けたという。
相手はもうじき十字架につけられる罪人である、ということでやりたい放題だ。あるいはこれは日頃の鬱憤をイエスにぶつけているということなのかもしれないが。ほとんどいじめみたいなものだったようだ。
ここに来るまでもイエスはいろんな人たちに翻弄されているかのようだ。最終的にイエスを十字架につけることに決めたのはローマの総督であったピラトだが、そこでは群衆達がイエスを十字架につけろと騒いでいた。ピラトはイエスを釈放したかったらしいが、群衆が騒いで暴動が起こって自分の責任を問われては面倒だと思ったのかもしれないが、イエスを処刑することにして騒ぎを押さえたようだ。
そもそも群衆が騒いだのも、ユダヤ人の指導者達の差し金だったのかもしれないし、ピラトの所へイエスを連れて行ったのはユダヤ人の指導者たちだった。
彼らはイエスが邪魔だったようだ。目の上のたんこぶだったのだろう。とにかく今までのしきたりを守るように、慣習を守るようにと言っている人にとっては、その本質はどうなんだ、なんて言われることは相当うっとうしかったに違いない。そして神殿の商売にまで口を出されては、自分たちの利権さえも危うくなってしまいかねないわけだ。
自分たちの生活を守るためには、でもそれは大概において自分たちの利権を守るため、自分たち一部の者たちだけが美味しい思いをするための仕組みということなんだろうけれども、それを守るためにはイエスに死んでもらうことが一番だったのだろう。
ただ中
イエスはそんな欲望渦巻く社会の真ん中にいた。神の国はここに来ている、と語ってきた。あなたは神に愛されていると語り、苦しめられ虐げられている人たちを力づけていった。しかし人間の心の中のことだけを考えていたわけではなかった。
イエスは社会の不正義に対しても発言していった。律法学者やファリサイ派の人たちに対しても、あんたたちはおかしいぞと言いつづけてきた。
神殿の中で商売している人の台をひっくり返したりしてきた。特権階級だけがいい思いをし、弱く小さい者を苦しめ続けるような社会構造に対して、それはおかしいと言いつづけてきた。
イエスはそうすることで弱く苦しめられている人たちを、心の中からも、そして心の外からも救おうとしてきたのだ。
そしてその結果が十字架だったのだ。人を救うのに自分は救わない、と憎まれ口を叩かれながら、それでも自分を救おうとはしなかった。イエスは人間のすべてをただ受けとめていっているようだ。
十字架
人間の欲望も、嫉妬も、憎しみも、自己嫌悪、そんな人間のどろどろした思いを全部受けとめて、イエスは黙って十字架に向かっていった。茨の冠をかぶらされ、唾をかけられても、葦の棒でたたかれても黙って受けとめていった。
だからイエスは、あなたも私の所へ全部持ってきなさいと言われているのではないか。あいつが憎い、赦せない、殺してやりたいというような思いも、いざとなった時には誰かを悪者にして自分ばかり守ってしまうというような情けない思いも、自分なんか生きていても仕方ない、価値のない人間じゃないかと思うような思いも、将来のことが不安で不安で仕方ない、あのことが気がかりで心配で心配で仕方ないというような思いも、全部私の下に持ってきなさい、私にぶつけなさいと言われているのではないか。
そしてそれは私たちが私たちの心の奥をしっかりと見つめていくということでもあると思う。心の奥の、決して誰にも見せたくないような思いを見ていくということでもあるのだろう。そう言う面では十字架は私たちの心の奥底まで映す鏡でもあるのだろう。十字架の前では、自分でも気づかなかったような自分が見えてくるかもしれない。兵士たちが、大の大人がイエスを侮辱したような、普段見ることのないような面が見えてくることもあるかもしれない。十字架はそんな私たちの真の姿を写す鏡なのだ。
しかしイエスはそんな真の姿の私たちを受けとめてくれる。私たちの全てを受けとめてくれる。そのあなたを愛している、どろどろの思いを持ったあなたを私は愛している、イエスはそう言われている。