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礼拝メッセージより
「正義と公平」 2007年7月1日
聖書:イザヤ書 11章1-10節
イザヤ
イザヤは南王国ユダのエルサレムで預言者として活躍した。当時は経済的に繁栄し、貧富の差が拡大して、官僚や裁判官が賄賂をもらったり利権を守ろうとしたりしていたそうだ。
また外国からの脅威にさらされていて、アッシリアやバビロン、エジプトなどの強い国がまわりにあって、どの国と仲良くしておくのがいいのかというようなことで揺れていたらしい。自分たちの国を守るため、自分たちの体制を守るため、自分たちの利権を守るためにいろんな駆け引きをしていたようだ。
形の上では宗教的には熱心であった。エルサレムには神殿があって、献げ物はしていた。自分たちのことを守ってもらうためにも、一所懸命に祈ってもいたのだろう。いろんな儀式も祭りもつつがなくやっていたのだろう。そうすることが神に繋がることであって、神に愛されることであって、自分たちを守ってもらえることになると思っていたのだろうと思う。
周りに強い国があるからこそ余計に宗教的にも熱心にならざるをえないような面もあったんだろうと思う。
預言
しかしそんな時にイザヤは神の言葉を告げる。それはこの国はもうすぐ滅びてしまうということだった。木は切り倒されるという。
しかしエッサイの株からひとつの芽がでてくるという。エッサイとはダビデ王の父の名。新しい王、新しいリーダーが出てくるというのだ。そのリーダーは知恵と識別、思慮と勇気を持ち、主を知り、畏れ敬うような者であるというのだ。
そしてイザヤの預言のようにユダの国は滅びる。そして新約聖書ではエッサイの株からイエス・キリストが誕生したと告げる。
間違い
イザヤの時代でも宗教的な儀式は行われていた。なのに国は滅びてしまった。どうしてなのか。
この当時
腐敗がはびこり、賄賂が横行。神を忘れ栄華に酔っていたらしい。具体的には所謂弱い人間のことを配慮せず、金持ちは朝から酒を飲み、自分だけ、自分たち仲間だけのことを考えていた時代だったようだ。
1:23 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。
形だけの儀式
当時の人たちは儀式を守ることを大事にしていたようだ。献げ物はそれによって神と人との関係を正常に保つためのものだろう。きっとその献げ物をすることによって当時の人たちは正しいことをしている、これで神との関係は保たれると思っていたのだろう。そして実際旧約の律法には事細かに献げ物についてどういう風にするか書かれている。そしてそのとおりにしていれば大丈夫と思っていただろう。
ところが「1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。」と言われている。
またいろいろな祭りについても人々は神が自分たちに対して恵みを与えられたこと、神の大いなる業を見せて下さったことを記念して行っていた。つまりそれは神が自分たちを顧みてくれていることの証しだった。祭りを行うことで、神が顧みてくれていることをまた思い起こしていたようだ。
ところが祭りについても「1:13b 新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。」と言われている
さらに祈りについても「1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。」なんて言われている。祈りを神は聞かれないという。ならばどうすればいいのか。もうとり返しのつかない状態のようだ。
形と中身
神を信じるということは、神に従うということはどういうことか。もちろん信じたふりをすることではない。それは当たり前。でもなんだかそういう振りをしていることで安心することはある。
神に従う、神の声に従うとは、儀式とかいろいろな決まった形通りに行うこと、そしてひたすら天を見上げて主よ主よということのように思うことがある。どれほど熱心に天を見上げたかということが大事で、長い時間ひたすら耐え抜いて上を見上げていられる者が信仰深いものと思われる、そんな所があるのでは。俗世間から離れてただ神を見つめてという気持ち。そして自分は神のみを見つめているんだという気持ち、安心があるように思う。
しかし神は、献げ物はするな、儀式もするな、祈るな、お前達のすることは全部受け付けないというわけだ。
神が白くする。
ではどうすればいいのか。何をすることが神に従うことなのか。
「1:15b お前たちの血にまみれた手を1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」
ひたすら天を見上げることではなく、横を見て孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ、と言われるのだ。
そういう者たちのことを放っておいて、ただ天を見上げて祈っても神は聞かれない、虐げられている者たちを顧みないことは神の御心ではないということではないか。
イエスも言っている。
ルカ6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」
マタイ7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
弱い立場の者を守って行くこと、虐げられている人たちのことを顧みること。それこそが神の御心なのだ。
そしてそれは正義と公平のないことに対しておかしいと言っていくことなんだろうと思う。