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礼拝メッセージより
「祈り」 2007年6月24日
聖書:ルカによる福音書 18章1-8節
やもめ
やもめってあまり使わない言葉だ。ネットで調べたら死後辞典というサイトの中にあった。
夫を亡くした女は日々の暮らしが大変。法律的にも社会的にも保護されない無力な存在。お金もない。裁判の相手が誰なのかは話しに出てこないけれど、やもめに比べればずっと金持ちだったのだろう。裁判で証言できるのは成年男子だけだったそうなので、自分の意見を代弁してくれる夫を亡くしたやもめはそれだけでも不利な立場におかれていた。もちろん裁判官に金銭や贈り物をする経済力も持たない。だからひたすら裁判官のもとへ通うしかすべはない。それだけが武器。放っておけばなにもかも取られてしまう、そんな無力なやもめにとって、しつこく裁判官に願い出るしかすべはない、自分を守るためにはそれしかない、そんな状況だったらしい。
裁判官
あまり正しい裁判官ではない。「神を畏れず、人を見下す横柄な裁判官」。
最初はやめもに対し、彼女の願いを無視していた。だいたい法律なんてのはおおよそ金持ちのに有利になるように作られているようだ。だから何もしなければお金のある力のある側に有利な判決となる。その上何か不正なことまでして貧しい者から巻き上げようとすることもある。
やもめは自分を守るためにひたすら裁判官の所へとでかけていく。どこへいくにもついていったのか、毎日毎日裁判官の前に現れたのかしたのだろう。裁判官がいやになるほど、うるさくてかなわないほど出かけていったという。
あまりのうるささに裁判官はやもめのための裁判をすることにする。そうしないことには彼女が夢にまで出てきてうなされてしまうということなのかもしれない。
祈り
この話は、だからしつこく一所懸命に祈りなさい、という話しということになっている。
祈りというのは、神との対話であると言われる。話をする場合、相手が聞いてくれるという信頼がない場合、話さない。相手がどれくらい真剣に聞いてくれるか、どれくらい分かろうとしてくれているかによって、どれ位まで本心を話すか、ということになる。相手がどれ位自分のことを親身になって聞いてくれるか、ということで、半分くらいにしておこうかとか、すべて話そうか、ということになる。
相手がとことんまで聞いてくれるなら、私たちは本心を語ることができる。自分の苦しみや悲しみや痛みまでも話すことができる。神はとことん聞いてくれるのだと思う。そして神は私たちが願う前から私たちに必要なものは知っている、と聖書に書かれている。
しかしそうすると今日の箇所は何を言おうとしているのだろうか。この神を畏れない、人を人とも思わない裁判官と、私たちの神とは随分違うという気がする。私たちは神に対して、このろくでなしの裁判官に訴えるようにしつこく祈れないといけない、と言われているのだろうか。
不条理
私たちの現実の世界は不条理がいっぱいだ。力を持った者が支配しているような世の中だ。最近でも無実なのに逮捕されて無理矢理自白させられて、裁判でも有罪になって、刑務所に服役して、たまたま真犯人が別の事件で捕まったことから冤罪だと分かったなんて話しがあった。警察も裁判所もかなり不正があるように見える。あるいは金持ちはどんどん金持ちになって貧乏な若者はどうやっても楽にならないような仕組みがだんだんと出来てきているような気がする。おかしなことが一杯だ。この裁判官のような者が世の中には一杯いるような気がする。
しかしそんなろくでなしの裁判官に対してどんどん訴えていい、繰り返し繰り返し訴えていい、世の中の不条理を諦めて黙っているのではなくて、どんどん声をあげていっていいんだ、とイエスは言っているような気がする。そうやって自分の権利を守ろうとする者を神は見捨てはしない、と言われているのではないだろうか。弱い立場にある自分を見捨てるな、こんなに大変な目に遭っているということを叫んでいくことに対してイエスは全面的に肯定しているのではないか。そうやって叫んでいく者を見えないところで神は支えているのだと言っているのではないか。
こんなろくでもない裁判官でも、あまりにうるさく面倒なので助けてくれるのだから、あなたたちはあきらめずに訴えていけと言われているような気がする。
祈り
そして祈りとは、そんな不条理を訴える自分を、あるいは権利を求めて行く自分を神が支えてくれていることを、知っていくことじゃないかと思う。こんなに大変なんだ、どうにかしてくれと訴えていっていいんだと神が認めてくれていること、そんな私を神が励ましてくれていることを聞いていくことなんだろうと思う。
ここは絶えず祈るようにということのたとえてして語られていると言われる。けれども神は何度も何度もしつこく祈らないと聞いてくれないような方ではない。神がこんな不正な裁判官という訳ではない。なにより聖書は一貫して、神は祈る以前に私たちの苦しみも悲しみも全部分かってくれていて、私たちに必要なものも全部知っていると言われる。
だから実はイエスがこのたとえで言いたかったことは、なかなか聞いてくれない神でもいつかは聞いてくれるからそれまでしつこく祈れ、ということではなく、自分を守るためにしつこくしつこく行動するしかない、そんな無力な者の中に神の力が宿る、そのしつこさを神は全面的に肯定しているということなのではないか、その行動を神が支えているということなのではないかと思う。そして祈ることで私たちはそのしつこい働きを続けていける、祈ることで神の支えを知ることができるのだろう。
世の中には大きな不正があり、不条理がある。私たちが少々なにか言ったからといって変わるものではないしとあきらめの境地になりがちだ。そして陰でぶつぶつ言うだけになってしまいがち。けれどもイエスは不正に対して声をあげていい、どんどんしつこくあげていけと言われているような気がする。そうすることが弱い私たちを守っていくことでもあり、弱い誰かを助けていくことにもなっていくのだろう。そうやって声をあげていくこと、何とかしてくれと訴えていく、そういう私たちを神は支えてくれると言っているのだろう。その神の支えを知るために、そうする力を得るために絶えず祈れと言われているのではないか。