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礼拝メッセージより
「誰かのため」 2007年6月17日
聖書:マタイによる福音書 25章14-30節
芝生
最近お金の話しばかりしている。この前もテレビで夏のボーナスのことを話ししていた。毎月の基本給の2ヶ月分が普通で、一般企業で50万弱、公務員はその2倍位なんだそうな。そんなにもらっているのかと羨ましく思ったり、そんなに仕事しているのかなんて思ったりしていた。
聖書では富と神と両方に仕えることはできないと書かれているけれど、お金のことばかり言っているということはお金に仕えているということなんだろうか。
隣の芝生は青く見える。確かにその通り。給料だけではなく人の持っているものはなんだか素敵に見えて、自分の持っているものはみすぼらしく見える。自分にないもの、自分が持っていないものがとてもすばらしく見えてしまう。自分も有名になっていっぱいお金を稼げればいいな、なんて思う。いつも人と自分を比較して、他の人の方がすぐれているものを一杯持っているような気になって、自分はどうしてこんなに駄目なんだろうと思ってしまう。
立派にいろんなことをやっている牧師、教会を大きくして人を増やしている牧師なんてのを見ると羨ましくなったり妬んでみたり、自分を卑下してみたりしてしまうようなところがある。
タラントン
今日の聖書の中にタラントンというお金が出てくる。タラントンとはもともとは才能のこと。誰にも与えられている才能、能力。後にタレントと訳されるようになったそうだ。
今日のたとえにあるようにそのタラントンを私たちはそれぞれに与えられている。それぞれ違った額を預けられているように、私たちはそれぞれに違った賜物を与えられている。タラントンは与えられたもの、贈り物、あるいは預かりものといってもいいかもしれない。才能があるとかないとかということが実際にあるが、そして特別な才能のあるものがすぐれた人間であるように思うところがあるが、しかしそれは本当は神さまがたまたまその人にそれを預けたということなんだろう。
そして神がどのようなものを預けているかということであるが、1タラントンとは6000デナリオンと聖書の換算表に書いている。1デナリオンが1日分の給料ということで、6000日分の給料。1年に300日働くとすると1タラントンは20年分の給料ということになる。2タラントンは40年分の給料、ということは一生働いた分の給料ということになる。5タラントンというと100年分の給料ということになる。
主人はそれを「少しのもの」なんて言っているが少しではないように思う。でも実際神からの賜物はそれほどのものだということかもしれない。そしてそれでも神はまだ少しでしかない、というのだ。3億円に相当するものを少しのものという。
出来ない
私たちは神からどれほどの賜物を与えられていると思っているだろうか。神さまは私にもっといろんな賜物を与えてくれていたら、あんな才能を、こんな才能を与えてくれていたら、なんてないものねだりをすることが多いけれども、実はすでに与えられている賜物、才能というものはすごい価値のあるものなのかもしれない。私たちはすごいものを神から与えられているのに、こんなもの全然価値がないと思っているのかもしれない。
私たちは自分には何も出来ない、これもあれも出来ないと言う。教会でもそう言う言葉をよく聞く。周りの人を見るときは、あの人はあれも出来てこれも出来てといいなあ、なのに自分には何も出来ないという。本当にそうなんだろうか。本当は私たちは自分に与えられているものがよく分かっていないのかもしれないと思う。本当は数億円のものを預かっているのに、それに気づかずに、あるいはこんなことは大したことではないと決めつけて、自分には何も与えられていない、あの人にはあんなに与えられているのに、なんて文句ばかりいっているのかもしれない。
自分に何が与えられているか、自分に何ができるか、それをもう一度考えてみた方がいいのかもしれない。そして文句ばかり言っているとしたら、本当にそれが正しい文句なのかどうかを考えてみた方がいいのかもしれない。
喜ぶ
5タラントンを預かったものが5タラントンを儲けたことを主人は一緒に喜んでくれ、という。2タラントンを預かったものが2タラントンを儲けた時にも喜んでくれという。しかし1タラントンを預かったものが、それを地の中に隠しておいたことに関しては、けしからんことだ、という。ではこの主人は儲けたから一緒に喜んでくれと言ったので、儲けなかったから怒ったのだろうか。
この話は天の国のたとえの話しであるから、主人は神のことだろう。神は儲けない者に対して怒る方なのだろうか。多分儲けないことに怒ったのではなく、それを土地の中に隠して置いて全然使わなかった事に対して、怒ったのではないかと思う。減らないように大事にしまっておいたということならばそんなに怒られる筋合いでも無いという気がする。減らさないことが大事なことならば、それも一つの方法だ。しかしここで主人が怒ったのはそれを預けたものを用いて何かをしようとしなかったことに怒ったのではないかと思う。預かったものを用いて、仮にそれでうまくいかずに損をしたとしても怒られはしなかったんではないかと思う。
私は年を取ったから、体が悪いからあれもこれもできない、と思う。もっと才能があれば、もっと若ければ、もっと暇があれば、なんてことも考える。でも結局そうやって与えられた賜物、預かっている賜物を用いようとしないとなると、土地の中に埋めておくことと同じなのではないかと思う。
喜ぶ
儲けたものに対しては私と一緒に喜んでくれ、と主人はいう。神さまは私たちが賜物をいかすことに対して一緒に喜ぶと言われているのではないか。
私たちが賜物を用いていかす、それは神を喜ばすことであり、私たち自身の喜びでもあると思う
賜物は、自分一人が握りしめていても何に意味もないもののようだ。神から与えられたどんなにすぐれた才能も、それを誰かのために用いるのでなければそれは意味がない。誰かのために用いるからこそ喜びとなるのだ。
どんなに歌が上手くても、楽器をどんなにうまく演奏できても、ただ自分一人だけで歌っても演奏してもそれほど嬉しくはないだろう。こんなに上手になったというのはあるだろうが、それを聞いてくれる相手がいるからこそ、そしてそれを喜んでくれるからこそ自分の嬉しさは何倍にもなるように思う。
私たちは神からいろんな賜物を与えられている。愛を与えられている、赦しを与えられている。しかしそれをただ減らないように溜め込んでいくだけでは自分も周りも喜べない。与えられているものを使っていくことでその与えられたものはもっと増えていくのだろう。そしてその分自分の喜びも大きくなっていく。
その喜びを大きくしていくことを神は一緒に喜んでもくれる。喜びを大きくするには自分から与えることが必要だ。愛を赦しを与えること、それが自分の喜びを大きくすることでもある。ただ受けることだけを考えていては喜びは大きくならないように思う。受けるよりも与える方が幸いである、と言われているように、与えることで喜びは増える。受けるばかりでは不満が大きくなっていくばかりだ。
教会はやくざよりもたちが悪いと言っている人がいた。実際やくざがどうなのかはよく知らないけれども、その人が言うには、やくざは一度助けられたら義理に感じて仕えていく、しかし教会は何度も何度も助けてくれというばかり、だそうな。
喜びがないとすれば、それは自分が与えることをしていないから、自分に与えられた預けられた賜物をいかして用いてないからなのだろうと思う。
誰かのために自分の物を与える、自分の持っているものをいかす、そのことでその誰かと一緒に喜ぶこと、そこでは神さまも一緒に喜んでくれていることだろう。神から与えられた愛と憐れみと赦しを、私たちも私たちの隣人に与えていこう。そしてそのことを喜んでいきたい。