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礼拝メッセージより
「豊かな人生」 2007年6月10日
聖書:ルカによる福音書 16章19-31節
たとえ
この前サッカーくじで6億円が当たるかもしれないということで騒いでいた。6億円も当たったらあれとあれを買ってなんて想像する。仕事なんてする気もなくなりそうだ。実際はくじを買うこともないので現実味は薄い。
でもサラリーマンの平均年収がいくらだとかいう話を聞くと切実になる。
16章13節でイエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と語っているが、お金の話しにはすぐに反応する、お金のことばっかり考えている、お金のことばっかり心配しているというのは、富に仕えているということなのかなと思う。
14節「金に執着するファリサイ派の人々」に対して語られたたとえ。
登場人物
金持ち(無名)−いい衣服を着て毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ブランドのものをいっぱい持っていたのか。
ラザロ−できものだらけの貧しい人。金持ちの門前で寝ていた。食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬ができものをなめた。
死後
金持ち−葬られ、陰府に。炎の中で苦しむ。
ラザロ−天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。
金に執着するファリサイ派
ファリサイ派は富は神からの祝福だと自慢していたそうだ。このたとえの金持ちもそんな気持ちだったということだろう。そしてその富を自分のもの、自分だけのものと思っていたらしい。自分の家の門の外にはラザロが残飯を待っていることを知っていながらそのままでいた。ラザロという名前も知っていたけれど助けることもなかった。自分は神から祝福された者、ラザロは祝福されなかった者という気持ちだったのではないか。こんな奴のために自分の富を分けてやらない、食卓から落ちるパン屑さえもやるのは惜しいと思っていたのかもしれない。
兄弟愛
金持ちは陰府に行ってから自分の兄弟たちのことを心配する。このままだと自分と同じ目に合ってしまう。そこでラザロを遣わしてくれ、とアブラハムにお願いする。しかしアブラハムは、モーセと預言者がいるのだからそこから知ることができる、という。しかしそれくらいでは自分の兄弟たちは悔い改めはしない、と金持ちは訴え、死んだ者を復活させて兄弟たちに知らせてくれ、と言う。しかしアブラハムはモーセと預言者に耳を傾けないなら、死者の中から生き返る者がいたとしても言うことは聞かないだろう、という。
モーセと預言者とは聖書のことを指している。つまりどんな奇跡的なことが起こったとしても聖書に聞かないなら悔い改めることはないだろう、という。もうすでに聖書があるのだからというのだ。
聖書から聞くことをしないならば、どんな奇跡があったとしてもその人の生き方を変えることはない、神を見上げるようにはならない、ということのようだ。
愛の無さ
金持ちにとっては門前のラザロはほとんど別世界の人間のようなものだ。自分とは関わりのない、関わりたくない人間だったのではないか。
陰府にいった時に自分の兄弟のことを心配する気持ちがあった金持ちだが、門前にいるラザロのことを心配することはなかった。陰府に行ってからもラザロに謝るわけでもなく、それまでのことを悔い改めるでもなく、それどころかまだラザロを利用しようとしている。
富を自分のものとし、財産を自分のものだと考え、自分が金持ちであるならそれでいい、自分が生活できるかどうかそれしか考えないような生き方をイエスは間違っていると言っている。自分さえよければ、という生き方をイエスは戒めている。
神を愛す
奇跡によって神を知る、人間の生きる道を知ることはできない。聖書によってそれを知ることがないかぎりは。では聖書はどんなことを語っているか。
レビ記
19:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
19:10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
イザヤ書
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
旧約聖書には、こういうふうに弱い立場にある人の親切に保護しなければならない、という事が書かれています。
この金持ちもユダヤ人であったので、この聖書の言葉はよく知っていただろう。「隣人を愛せよ」という言葉もよく知っていたはずだ。しかし、それらの言葉は、言葉として知っているにすぎなかった。それらの者への責任という事は、果たしていなかったのだろう。
金持ちも神を愛し神に従おうとしていたのだろう。しかしその神を見つけられずにいたのではないか。神に仕えて心から豊かな人生を送りたいという願いは誰にもあるだろうと思う。けれどもお金を持っていたために、貧しい人間とは違う、こんな奴のために自分の財産を使ってたまるかと思って反対にお金に縛れてしまったために、却って神を見失ってしまっていたのではないかと思う。
でも実は聖書が語るように、貧しい者を愛することを通して、すぐ近くにいたラザロを通して神に会うことができたのではなかったか。
人を愛す
ヨハネの手紙T4章20節
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
マタイによる福音書
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
貧しいラザロは、大声で訴えてはいるわけではない。けれども私達のごく身近で、私達に問いかけているかも知れない。そして私達は、その問いかけに気付いていないだけかも。そしてそれに気付くのは、やはり、ここで「モーセと預言者に耳を傾ける」と言われているように、御言に真に耳を傾けることだろう。私達も、常に御言に耳を傾けたいと思う。
そして御言葉には、神を愛し人を愛するようにと繰り返し書かれている。自分の神、自分と隣人というような関係、繋がり、それを大事にするようにと言われている。お金、財産、力、などなど、私たちは自分がどれだけ持てるか、そしてどれほど貯められるか、どれほど減らさないでいられるか、ということに関心が向きがちである。けれどもそれよりも自分と周りとの関係を大事にするようにと聖書は語っているように思う。
お金やものがいっぱいあっても、誰かとの暖かい関係がなければ、それはきっと空しい人生だろうと思う。愛する、いたわる、大切にする、そんな関係を持つところに豊かな人生がある。