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礼拝メッセージより
「隣人になる」 2007年6月3日
聖書:ルカによる福音書 10章25-37節
えいえんのいのち
律法の専門家がイエスを試みようとして質問をした。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」受け継ぐ、とは相続するという意味の言葉だそうだ。
それに対してイエスは逆に律法の専門家に聞き返す。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」律法の専門家に律法には何と書いてあるか、なんて聞くんだからおもしろい。つまりあなたはそんなことは知っているではないか、知っているはずではないか、知っていてなぜ聞いてきたのか、といったところだろうか。
律法の専門家は旧約聖書の申命記6章5節のところを引用して答える。「6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ここはユダヤ人たちが一日に2回唱える「シェマの祈り」の中にも入っているものだそうだ。そして続けてレビ記19章18節、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」敬虔なユダヤ人たちにとっては、神と隣人が愛されるところにおいて律法は満たされると考えられており、そのことを誰もが知っていた。
だからイエスも「正しい答えだ」と同意している。そしてイエスはそれだけでは終わらず、続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と語った。問題はそれを実行するかどうかだということだろう。ただ筆記試験で答えるだけだとしたらこの律法の専門家の答えは満点だろう。けれども実際には答えを知っているかどうかというよりも、それを実行しているかどうかということだろう。偉そうなことを言っても実行していないとしたら何の意味もない。
もし律法の専門家が、永遠の命を引き継ぐために何をしたらいいのかが分からなくて、あるいは知っているけれどもそれで大丈夫なのか自信がなくて質問したのなら、この答えで安心して帰ったかもしれない。しかし彼はどうやら知りたいために聞いたのではなかったらしい。そうではなくイエスを試すために聞いたらしくて、だからここで「あーそうですか」と簡単に引き下がらない。そこで律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と切り返す。
よいサマリアじん
ここでイエスが語ったのが「よきサマリアびと」なんて言われ方をしている話しである。
エルサレムからエリコへ降っていく途中に追いはぎにあい半殺しにされた人を、祭司やレビ人は知らん顔をして通ったが、サマリア人は助けた、という話しだ。
さいしとレビびと
エルサレムからエリコまでは約27kmで5,6時間かかるそうだ。この道は悪名高い道で、誰かが強盗に襲われることがしばしばあったらしい。
エリコは祭司の町だった。祭司はエルサレム神殿でささげものをするという務めを終えて帰宅する途中だったのだろう。レビ人も同じように神殿での務めを終えての帰り道ということだろうか。
祭司もレビ人もユダヤ教社会では尊敬され尊重される人たちだったそうだ。しかし彼らは半殺しの目にあっている者を遠巻きに見て通り過ぎてしまう。
なぜ彼らは傷ついている人に関わらなかったのか。理由は語られていない。それなりの理由を持って彼らは傷ついたものと関わりを持たないことにしたのだろう。祭司やレビ人は神殿に関わる仕事をしていたので特別に清くしていないといけなかった。死体に触れると汚れるので、死にかけている人に関わって死んでしまったら汚れてしまう、だから関わらない方が安全だ、と考えたのかもしれない。
そうやって自分自身でもっともらしい口実を見つけて困っている人を助けない、ということは僕もよくやっているなあと思う。俺がしなくても誰かがやるさ、
サマリアじん
そこへサマリア人が通りかかり、彼は半殺しの目に遭っているその人を助けて介抱し、宿屋までも連れて行った。それがイエスの語ったたとえであった。
サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東の宗教とイスラエル古来の信仰とが結びついてしまった。南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見ていたようだ。
そんなサマリア人が自分を見下していた側の人間を助けたというのだ。同じユダヤ民族の代表でもあるような祭司やレビ人が見捨てた人を軽蔑していたサマリア人が助けたと。
あいのいましめ
祭司やレビ人は律法のもとに生きていたはずだ。律法のすべてが神を愛し、隣人を愛するということに尽きるとすれば、隣人を愛さないことはなんでも律法に反し、神の意志に反することになる。
この祭司もレビ人も神を信じている、神を大事にしている、忠実に神に従おうと思っている人間だろう。神を愛していると思っていることだろう。ところが最も大事な掟の一方、隣人を愛するということがどこかでうやむやになっていたのではないか。
いろんな理由をつけて人を愛さないことが多いように思う。もっと時間があれば、もっとお金があれば、もっと元気であれば、もっと余裕があれば、そうしたら誰かのために何かをできるのに、そうなれば愛することもできるのにと思う。
この話しを聞くと、教会に来ている多くの人は、私には出来ない、私はこのサマリア人にはなれない、この人は偉いですねえ、ということを言う。結構簡単にそう言って、自分は相変わらず誰かの隣人になろうとしないで、誰かに助けてもらう側にずっといることがある。自分に出来るかどうか、ということを気にすることが多いように思う。このサマリア人のようにここまで出来るかと真剣に考えたらきっと誰でも出来ないという結論になってしまうだろう。けれどもイエスは、このサマリア人のようなことをしてきたかとか、この人のしたようなことが出来るかどうかと聞いているのではない。イエスが言うのは、このサマリア人が追いはぎに襲われた人の隣人になった、そのようにあなたも同じようにしなさい、と言われているのだ。出来るかどうかを聞いているのではなくて、同じようにしなさいと言われているのだ。
隣人になることはそれはとても面倒なことだ。面倒なことを背負い込むことだ。傷ついたものを介抱することも、苦しむ者と一緒にいることも、嘆いたり呻いたりしている者の声をじっと聞くことも、それはとても面倒な、しんどいことだ。けれどもそれが愛すると言うことだろう。愛すると言うことは面倒なことを自分がやっていくことだと思う。愛すると言うことは誰かのために、自分の能力や財産や時間を投げ出すことでもあると思うのだ。自分のお金も時間も能力も勿体ないから差し出さないとしたら愛するなんてことはできないだろう。
りんじんとなる
隣人となったのは誰か、とイエスは聞いた。隣人となるのだ。隣人とはただ横にいる人間ではないようだ。自分が関わっていくことで初めて隣人となることが出来るのだろう。
ということは隣人になるかどうかが問題のようだ。ここでいう隣人とはただ隣にいる人のことではないようだ。隣に誰がいようと、助けの必要な人がいようとこちらが何の関りも持たなければ隣人ではない、というのだ。つまり隣人になろうとする意志がなければ隣人にはならないということだ。
このサマリヤ人が隣人になる発端となったのは、憐れみ思ったということだった。苦しんでいる人をみて憐れに思う、その思いがあって初めて隣人になれるのだろう。
イエス
しかしなれと言われてもそうそう簡単になれるものではない。
ルカ18:18以下に金持ちの議員の話が出てくる。同じように永遠の命を引き継ぐためには何をすればいいのかと聞いている。この人は、律法は子どもの時から守っていると答えた。それに対してイエスは、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい、と答えた。
そんなこと出来ないよ、と思う。半殺しにされている人の面倒をみよ、財産を売って施せ、なんて普通ではなかなか出来そうにないことをしないと神の国を引き継ぐことはできないのだろうか。
この質問をした二人とも、そのために何をすればいいのか、と聞いている。自分が何かをすることで永遠の命を引き継ごうとしている。それに対してイエスは、何かをすることで引き継ごうとするのならば完全にならないといけないと言っているような気がする。不完全な人間に完全になれと言われているような気がする。実はイエスは、永遠の命は何かをすることで引き継ぐものではなく、ただ受けることなのだと言いたいのかもしれない。永遠の命はただ神の憐れみによって与えられるものなのだ、全くふさわしくないのに与えられる恵みなのだ、と言いたいのではないか。
あなたはふさわしくないのに憐れまれて愛されている、だから今度はあなたが憐れむもの、愛する者となりなさいと言われているのだろう。
だから私たちが隣人となるのは、ただそれが神の命令だから従うとか、そうしないと神さまから怒られるからではなく、神が、イエスが私たちを憐れんで隣人となってくれたからなのだ。