前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「新しく生まれる」 2007年5月27日
聖書:ヨハネによる福音書 3章1-21節
ニコデモ
ファリサイ派、ユダヤ人の議員、最高法院の議員。ということはそれなりの年齢でそれなりの力も持っていたということか。
そんな人がどうしてイエスのところに来たのか。何を求めてたのか。夜こっそり来てイエスの様子を探ろうとしているのだろうか。
ニコデモが属していたファリサイ派とイエスとの関係は敵対というようなものだった。ならばそんな相手に対して、先生と話し掛けるということはよほど何かを求めていたのか、何かに悩んでいたということか。
ファリサイ派の多くのものは自分達は正しいと思っていたようだ。自分達こそ正しいことをしている、自分達のしていることこそ絶対なのだと思っていた。そしてそういう者たちは自分たちと違う者をすぐに見つけだしお前は間違っていると言う。お前は間違っているから正しくしろ、俺たちのようにしろ、という。そしてそうしない者や出来ない者を排除していく。
しかしニコデモはそんな多くのファリサイ派の者とは違っているようだ。自分が間違ったことをしている、とは思ってはいないだろうが、どれほど自分のしていることが正しいかどうかをいつも考えていたのではないか。つまり自分が完全に正しいとは思っていない、ずっと正しいことを追い求めていると言うことだと思う。逆にいうと、自分にも間違いがあるかもしれない、という思いをずっと持っているということだと思う。だからこそ真実を探してイエスのもとにやってきたのだろう。
周りの仲間たちが、あいつはけしからん奴だ、神を冒涜している、と言っていたであろう状況の中でも、ニコデモはずっと冷静にイエスを見ていたのではないか。そう言う点ではとても優れていた人のように思う。
神が正しいことと、神を信じている者が正しいこととはまったく別物だ。正しい神を信じているから自分も正しいということはない。あたりまえのようなそんなことを私たちはしばしば忘れてしまう。特に神を信じていない人に対しては神を信じている自分たちの方が正しい、と思うようなことがある。あるいはまた信仰深くないと見えるような人よりも自分の方が正しいと思うようなことがある。でも本当はそんなことはない。何も変わりはしない。
また神を信じるからといって信じる自分が正しくなるわけではない完全になるわけではないのだから、自分にも間違いがある、正しくないところもあるということをわきまえておくことはとても大事なことだと思う。多くのファイサイ派の人達にはそれがなかったが、ニコデモにはそれがあった。だから彼はずっと真実を追い求めていたのだろう。だから彼はイエスの声に聞くことができたのだろう。
パウロもフィリピの信徒への手紙の中で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(3:12)と語っている。
新しく生まれる
しかし、やはりニコデモは完全でもないしイエスの言葉もすんなりと正しく理解できたわけではなかった。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われても、もう一度どうやって母親の胎内に入るのかと思ってしまう。文字通りに解釈する習性がついていたのかな。
新しく、ということばは上から、つまり神からというような意味があるそうだ。ニコデモはこのことばを単純にというか素直にもう一回出産することと思ったようだ。
新しく生まれることをイエスは違う言い方もしている。霊から生まれる、永遠の命を得る。つまりイエスが新しく生まれるといったのは、神によって生まれる、というような、神に従って生きて行くといった意味合いだったのだろう。しかしニコデモはもう一度母親の胎内に入っていく事だと考えて、そんなこと出来る訳がないと考えた。「年をとった者が、母親の胎内に入ることはできんでしょう」なんてことを言う。年を取っているかどうかは問題ではなくだれでももう一度母親の胎内に入ることなど出来ないのに。
水の霊によって
イエスは水と霊によって生まれなければ神に国に入ることはできない、てなことを言う。これは、「悔い改めて、決定的にからだの向きを変えねばならない。具体的に生き方を変え、自分の力によって救いを得ようとするのをあきらめ、神の力によって新しく生きなさい」(聖書教育)ということのようだ。
さらにイエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」という。どうすれば神の国を見ることができるか、神の国に入ることができるか、そんなことを人は一生懸命に考える。しかしそのことを私たちは分からない。ただ霊から生まれることで、神によって新しくされることで神に国にはいるのだ。
新しく
しかしどうして新しくなれるのか、神によって新しくされるのか。ニコデモでなくてもそう思う。どうしてそんなことがありえるのか。それも私たちにはよくわからない。それこそ思いのままに吹く風によって、霊によってそうされることしかわからない。
なぜそんなことを神はするのか。それは神が世を愛しているからだ。独り子を与えるほどに。そして独り子を信じて永遠の命を得るためだと。永遠の命のいうのもよく分からない。どんな命なのか、今と同じような命なのかどうかもよく分からない。
御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく救うためだと言う。神によって新しく生まれさせてもらえることを信じ、神に従って生きるように、そのために御子を遣わしたというのだ。それが救いだと。
しかし信じないものは、つまり自分の力で自分を新しくし、自分の力で救いを勝ち取ろうとするものは既に裁かれている、という。それは光よりも闇の方を好むこと、光に来ないこと、それが裁きだという。どうも信じない者は地獄行きだぞ、といっているわけではないようだ。光が来ても尚も闇の中にいること、それこそが裁きだという。神によって、神の力によって新しく生まれるというのに、それでも尚も自分の力で何とかしようとし、疲れ果ててどうにもならない、と嘆いているようなものだろうか。その状態が裁かれている状態だということだ。
私たちはだれでもいろいろな重荷や傷を負って生きている。決して誰にも触れられたくないような傷跡を持っているのではないか。いやでいやで仕方ないような面を持っているのではないか。また捨ててしまいたい自分の過去をみんな持っているだろう。全部捨てたいと思うようなこともある。でも決して過去を変えることも捨てることもできない。そしてそんな苦しい過去から押しつぶされそうになる。昔から抱え続けている荷物が溜まりに溜まってとても負いきれずに倒れそうになる。でも結局はそれは自分が何をしてきたか、自分が何ができたか、そして自分に何ができなかったか、自分はだめだ、やっぱり自分は駄目なんだという思い、それこそが私たちを抑えつける重荷となっているのではないか。
しかしイエスは、人は神によって新しく生まれることができる、という。自分の力ではなく神の力によって。どうやってかは分からない、けれども新しくなるのだ、とイエスは言う。そこには自分の力でどうにかしなければならないという思い、自分には何も出来なかった、これからも出来そうにもない、自分はだめだという思い、重荷から解放される生き方がある。神の霊に吹かれる、風に吹かれるような自由な生き方がそこにある。自分には何も出来ないからだめだ、こんないやらしい自分だから駄目だ、という思いに縛られず、そんな自分をも新しくする神の力が自分にも働いている、神の風が自分にも吹いている、そんな思いにされる。そこでまた私たちは新たな生きる力が与えられる。いろんな出来事の中で倒れうずくまり佇むこともある。しかしそこにも神の風は吹いている。霊に吹かれて風に吹かれて颯爽と生きたい。