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礼拝メッセージより
「ひとりのために」 2007年5月13日
聖書:ルカによる福音書 15章1-7節
頭数
高校の頃、進学校だったこともあったのか、先生から大学に何人進学したなんて話しをしょっちゅう聞かされていた。長期休暇の前になると、一日5時間だとか6時間だとか勉強するようになんて話しをしていたような記憶がある。6時間だか7時間だか勉強したら大学に合格できて、それ以下だと落ちる、なんて噂もあった。そして去年は何百人、その前は何人なんて話しもあった。そんな話しを素直に聞いてやっていたらいい大学に入れたのかもしれないが、俺たちはただの数でしかないんだな、ひとりのことなんてどうでもいいんだろうかなんて、思っていた。そのせいかどうかすっかり落ちこぼれになっていた。
徴税人、罪人
イエスの周りにはいつも徴税人や罪人たちがいたようだ。今日登場する徴税人は税金を徴収する下請けのような人たちなのだそうだ。当時はローマ帝国に支配されていて、その敵のローマに納める税金を取り立てる徴税人はみんなから嫌われていた。彼らは通常、市民としての当然の役職から除外され、法廷で証人として立つ資格も奪われていたらしい。
またここに罪人と呼ばれる人たちも登場するが、彼らはいっさいの市民的権利が剥奪されていた人たちだった。詐欺師や犯罪人、道徳的にいかがわしいとみなされる者も含まれていた。高利貸、賭博師、遊女、羊飼いなど。
こういう者たち、つまり善良な市民からは嫌われてしまって、社会からのけ者にされていた人たち、社会の落伍者が大勢、イエスの下に集まってきていた。イエスの話しを聞こうとして。
ファリサイ派、律法学者
するとファリサイ派と律法学者がぶつぶつと不平を言い出した。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。
けしからん、平気で罪人とつきあうなんてことがあってはならん。
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そこでイエスは譬えを話す。
あなたがたのうちの誰かに100匹の羊を持っている者がいて、その一匹を見失ったとしたら、99匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして見つかったら喜んで羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので一緒に喜んで下さい」と言うだろう。
羊飼いは夕方にはその群れを囲いへと追い込む時に必ず数を数えて確認するそうだ。そこで一匹足りなくなったとわかれば誰だって探しに行くだろう、と問い掛ける。当然探しに行くじゃないか、見つけ出すまで捜し回るじゃないか、と言う。
そしてその一匹を見つけたら、喜んで自分の肩に担いで帰るだろう、そして近所の人を呼んで、いなくなった羊が見つかったからということで祝宴でも始めるんじゃないのかい、とイエスは語る。
このように悔い改めの一人の罪人があるということは、悔い改める必要のない99人の者よりも大きな喜びが天にある、という。
立派に生きている99人よりも、堕落した一人の方が心配で仕方ない、ということのようだ。
失われたもの
一人の罪人とは誰のことか。悔い改める、なんて言葉が使われているところを見ると神から離れている人というような意識があるのだろう。それはイエスをキリストと告白しながら、今は教会から離れている人のことでもあるだろう。
あるいはまたまだイエスのことを知らない人のことでもあるだろう。全ての人は神によって造られた、全ての民は本来神の民であった、なのに神から離れ、失われた者となってしまった。
しかしそういう失われた者のために、その一人のために神はその一人を探しに行くというのだ。99人を置いてでも探し出しに行くというのだ。
教会に毎週通っている99人よりも、どこかを彷徨っている一人の方が気になっているみたいだ。
悔い改め
ここで悔い改めという言葉が使われている。すぐ後にある銀貨の譬えでも、このように一人の罪人が悔い改めれば、天では大きな喜びがある、と言っている。
では「このように、悔い改める」という悔い改めとはどのようなことだったのだろうか。悔い改める、なんていうと邪悪な心を綺麗な心に変えるというようなイメージがあるように思う。けれどこの譬えから見ると悔い改めとはそういうことではないようだ。
いなくなった羊は羊飼いによって捜し出された。次の譬えの銀貨は女によって一生懸命に捜し出された。ここで言う悔い改めとは、捜し出されるということになる。つまりこの悔い改めとは、人間を捜し求めにやってくる神に見出されることにほかならない。つまり、神によって見つけられること、見つけ出されて持ち主であった神の下へ帰ることだ。
天において
一人の人が悔い改めるということは、なくした羊を見つけるようなものなのだ。そして一人の人が神に捜し出されて、神の下へ連れ返されると、天では大きな喜びがある、みんなを集めて宴会を開きたくなるような喜びがあるというのだ。
徴税人や罪人たちが神のもとへ帰るということは天においては格別の喜びなのだ、というのだ。失われていた者たち、神から離れ、あるいは離されて、すがるべきもの、頼るべきものを持つことが赦されなかった者たち、お前たちは神から遠いところにいるんだと言われていた、お前なんか誰からも愛されないんだと言われていた者、そんな者が神に見つけ出され神の元へ帰ること、それは天においては大きな大きな喜びなのだ。
天において喜びがあるということは、見つけ出された本人が思う以上に、本人が喜ぶ以上に天においては喜びがある、ということなんだろう。なんか変な感じ。自分のことで自分よりももっと喜ぶ者がいるなんて。どういう事なんだろうか。それはきっと、見つけ出された者が思っている以上に、その人に価値があるからだろう。本人が思っている以上に、天においてはその人が大切な存在であるということだろう。その人を大切に思っている者こそが、その人が見つけ出されたことを喜ぶに違いない。だから本人が自分のことを大切だと思うよりももっと大切に思っている方が天にいると言うことだろう。
私たちはそうやって捜し出されたのだ。大切なひとりとして神の元へと連れ戻されているのだ。私たちは神がそんな目で自分を見つめていることにあんまり気づいていないのかもしれない。自分には大して価値がないと思うことが多いんじゃないだろうか。自分には何の力も能力も魅力もない、こんな自分は大した価値のない人間、全然価値のない人間だ、なんて思うことが多いんじゃないかと思う。
ところが天においては、神にとっては私たちひとりひとりは大切な大切な一人なのだということだ。お前が大切なんだ、99人を置いておいても捜しに行くほどに大切なんだ、と言いたいのだろう。お前が自分のことを価値がないと思っていたとしても、私にとっては大切な大切なひとりなのだ、たとえ誰からも大切に思われていなくても、私にとってはとてもとても大切なのだ。神は私たちにそう言おうとしているのではないか。イエスは私たちにそのことを伝えようとしているのではないか。だから天において大きな喜びがあるのだろう。
喜び
神に見つけ出されるということは、悔い改めるということは、それはその人自身がよかった、と思う以上に神自身が喜ぶことなのだ。そしてそれは教会にとっても大きな喜びだ。神から離れていた一人が神に出会うこと、神の元へ帰ること、これこそが教会にとっての一番の喜びなのだと思う。そしてそのためにも教会はこの世の中に存在するのだ。
私たちは天の喜びとなる大事な働きの一翼を担っているんだ。きっと。だから一人の人が神に出合うことを喜びたいと思う。一人の人が教会に、礼拝に来ることを喜びたいと思う。一人教会に来ることをもっともっと喜びましょうよ。それこそが天の大きな喜びなんだから、これを喜ばないで何を喜ぶんでしょうか。
最初に高校の時の話しをしたけれど、でもやっぱり数が気になる。礼拝の人数も気になる。最近大きな教会の話しがどういうわけか目に留まる。1000人の礼拝をしているなんて話しを聞くと、どうせ俺は駄目な牧師だなんて思う。
ひとりを大事に、なんて言うと小さな教会の負け惜しみみたいだけど、そんな気持ちもないわけではないけれども、でもきっと神さまはそんな見方で私たちを見ているのだと思う。何人で礼拝していようと、神はこの私のことを、そしてすぐ隣にいるこの人のことを神は大切に大事に思っているんだということ、そのことを忘れないでいたい、またそのことを伝えて行きたいと思う。