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礼拝メッセージより
「全財産を賭けて」 2007年5月6日
聖書:マタイによる福音書 13章44-46節
畑
パレスチナは交通の要衝だった。東は砂漠、西は地中海に挟まれている狭い地域。南北の列強に何度となく支配されてきた。
そこで大事なものを畑に隠しておくということをしていたそうだ。そして後々その畑から宝物が見つかるということは実際にもあったらしい。
小作人
畑で宝を発見し隠しておく。普通に考えると畑を耕していて、鍬か何かにごつんと当たって発見するということだろう。でもその畑の持ち主ではない。そうするとこの人は小作人かなにかということになるのだろう。この宝を手に入れるために、宝を隠しておいて、全財産をなげうって畑を買う、そうすることで宝を手に入れるということだ。ちょっと姑息な手段という気もするが、そのことはここでは問題にしていない。とにかく財産を全部売って宝を手に入れるということだ。
真珠
もう一つの譬えは、商人が良い真珠を探していて、高価な真珠を見つけるとこれまた持ち物をすっかり売り払ってそれを買うという。当時は真珠は養殖もしてなくて天然のものしかなかったそうで大変貴重だったそうだ。だからそれを見つけた時には全財産を売り払って買ったということのようだ。
天の国
そしてこれが天の国をたとえているという。
ここで昨日からずっと悩んでいる。神の国は私たちが全財産を賭けて手に入れるようなすばらしい宝だ、それくらい価値のあるものだ、だから神の国を手に入れるためには自分のすべてをなげうたないといけない、ということを言っているのかと思っていた。いろんなものを犠牲にしてでも手に入れなさい、と言っているのかと思っていた。
でもこの譬えの人たちはいやいや手に入れているわけではない。無理して覚悟を決めてそうしている風でもない。それが欲しくて欲しくて後先顧みず買ってしまったという感じがする。そうすると、天の国を手に入れるためにはいろんなものを犠牲にしなさいとか、いっぱい献金しなさいとかいうことを言っているのとは違うような気がする。天の国はそれほどにすばらしいものだということを教えようとしているのかもしれないけれども、天の国はすばらしいんだぞ、お前達も心得ておくように、なんてイエスは言うだろうかという気がする。
そこでもう一度聖書をよく見てみた。そうすると、天の国は畑に隠されている宝のようなもの、とは言っていない。全財産をはたいて宝を手に入れることが天の国にたとえられると言っている。
同じように真珠が天の国にたとえられてはいない。全財産をはたいて真珠を手に入れることが天の国にたとえられている。
つまり全財産をはたいて大切なものを手に入れることが天の国のことをたとえているのだ。
熱意
実はこの主人公は神のことを言っているのではないかという気がしてきた。神が宝を見つけて全財産をはたいて手に入れる、それが天の国なんだということ。その他からとは実は私たちのことを言っているのではないかと思う。神は私たちのことを宝なのだと言っている、高価な真珠だと言っているような気がする。神は私たちを手に入れるために大きな犠牲を払った、つまりイエスの命を賭けて私たちを手に入れた、そういうことを言っているのではないかという気になってきた。
そうやって私たちが神のものとされた、それが天の国なのではないかと思う。 宝物が欲しくて欲しくてたまらないで、ついつい全財産をなげうってしまったように、神は私たちを神のものとしたくてしたくて、私たちを神の子としたくてしたくて仕方なかったということなのではないかと思う。そのためにあらゆる犠牲をも厭わなかった、イエス・キリストの命を犠牲にしてでも私たちを自分のものとしたかったということなのではないかという気がしてきた。
そうやって神に手に入れられること、神に買い取られること、それが天の国なんだろうと思う。天の国は死んだ後に行くどこか遠いところにあるところというよりも、私たちが神に買い取られ、手に入れられるということなのだ。私たちが神の子とされるという出来事が起こっている、それが天の国なのだ。
だから天の国はいまここにあるのだ。