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礼拝メッセージより
「神が成長させるのだ」 2007年4月29日
聖書:マルコによる福音書 4章26-32節
神の国
日本は天皇を中心とする神の国、と言った総理がいた。その時はマスコミにたたかれていたけれど、天皇一族を神のように扱っている様子を見ると結構当たっているような気がする。神が権力を持っていて、その神が支配しているところ、そこが神の国というイメージがあるのではないかと思う。今権力をもっている者たちに変わって神が権力を持つようになる、神の国なんて言われるとそんなことを想像する。つまり神が上から支配するようなところという感じかな。
種まき
イエスはここで神の国について語る。神の国は、土に種を蒔くと、知らぬ間に芽を出して成長して実ができて、その実が熟すと鎌で刈り取るようなものだ、と言うのだ。
何それ?という気がする。
種蒔いて、あとは何もしてないのにやがて実が熟すと刈り取る、それが神の国なんだと。
実際の農家はそんなことは言っていられない。天気のこと、水のこと、虫のこと、雑草のこと、いろんなことを心配していろいろと面倒を見る。
でも神の国は種蒔いてから、あとは実が熟したら収穫するようなものだというのだ。
からし種
もう一つのたとえはからし種だ。からし種は小さい種から大きい木に成長する。からし種って粒マスタードに入っている粒のことだろうか。あの粒のことなのかどうかはっきりしないけれど、大きさとしてはあれくらいみたい。でも成長すると大きくなって人が登ったという記録もあるらしい。
そして神の国はそのからし種のようなものだとイエスは言った。ということは神の国とは爆発的に成長するようなもの、ということなんだろうか。
どうもイエスの語る神の国とは、天皇を中心とする神の国、というような神の国、神が上から力を振るって治めるような目に見える国のことではないらしい。
そうではなく、土に蒔いてから成長すること、下から成長していくこと、神が下から支えていくこと、神によって下から根っこから支えられていくこと、それがイエスの語る神の国ということなんではないかと思う。
種
ではこの蒔かれた種とは何なのだろう。どこに蒔かれているのだろう。
種とは神の言葉なんだろうか。神の言葉が人の心に蒔かれるとそれがいつの間にか成長するということなんだろうか。
とにかく種を蒔くことが神の国のようだ。種を蒔いて、そしてやがて収穫する、それが神の国だというのだから。とにかく種を蒔け、ということかもしれない。その種がどうやって成長するのか、どうして成長するのか知らなくてもいい、とにかく蒔きなさいと言われているような気がする。
その種は成長するのだ、その種には成長する力があるから、ということなんだろうと思う。
種に命があるから成長する。命のない種は決して成長しない。神の種には、神の言葉には成長する力がある、大きく成長する力がある、ということだろう。
それはいろんな人に御言葉を伝えるように、ということもあるのだろう。私たちがとやかくいうよりも、御言葉自体に力がある、命があるのだから、とにかくつたえればよい、ということでもあるのかもしれない。
そして同時に私たちは私たち自身の心の中にもこの種を蒔くことが大事なような気がする。しっかりと根を張ることができる心の真ん中に御言葉の種を蒔きなさいと言われているのではないか。
あるいはまたそれは教会に種を蒔くということかもしれない。
ネットを見ていると相田みつをさんの詩があった。「花を支える枝、枝を支える幹、幹を支える根、でも根はみえねぇんだよな。」
どんなきれいな花が咲いているかということばかりに目が向きがち。個人的なことでも教会のことでも。目に見えるところにばかり目が向いてしまう。それに比べて私はどうして駄目なのか、私たちの教会はどうしてこんななのか、なんて思ってしまう。でも本当は見えない根が大事なんだと思う。
命の種が蒔かれているかどうか。それが問題だ。そしてそれはどうやら小さくて見えにくいらしい。命の種が私たちの心に蒔かれているだろうか。命の種が私たちの教会に蒔かれているだろうか。
本当に命の種が蒔かれていれば、それは成長して大きくなる、時期が来れば収穫するようになる、ということのようだ。
その小さい小さい種を大事にするように、小さい種を私たちの心の中に蒔くようにと言われているような気がする。神の御言葉を、命の御言葉を私たちの心の中に蒔くように、そしてそれが蒔かれているならば、それは神の国なのだ。神の言葉に支えられて、生かされているところ、そこが神の国なのだ。