前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「種まき」 2007年4月22日
聖書:マルコによる福音書 4章1-20節
大声
イエスは大声? 群衆は陸、イエスは船の上、船から大勢の群衆へ語る。
譬え
イエスは譬えを語る。群衆に分かるように、群衆の分かることばで語る。
うまい譬えを使うと、むずかしいことも良く分かる。いつもの日常生活で使っている言葉で語るとだれにでも分かる。イエスは普通の言葉を使って教えた。なのに教会の中にはいろんな難しい言葉が氾濫している。どうしたことかいな。だいたい良く分かっていない人ほど難しい言葉を使う傾向にあるように思う。その道の権威は分かりやすい説明をする。イエスはやっぱりよく分かっていたんだ。やっぱり悪いのは牧師に違いない。牧師が分からん説教をするのがいけないんだ。きっと。それが教会で難しい言葉を氾濫させる元凶のような気がする。
で、今日のたとえも意味は分かりやすい。
第一の種 道ばたに落ちる。いろんな人が踏み固めた道の上に落ちた種は鳥がすぐに食べてしまう。
第二の種 石だらけで土の少ない所に落ちる。岩の上を薄い土が覆っているところ。一見したところは良い土地のように見えるが、すぐ下に岩があるような所。芽は出るが、日に焼かれて枯れてしまう。
第三の種 茨の中に落ちた。芽を出しある程度成長もするが茨にふさがれてしまって実を結ぶまでにはならない。
第四の種 良い地に落ちた。実を結び30倍60倍100倍になる。当時は10倍でも豊作だった。
この話は非常に分かりやすい。この譬えは何のことを言っているのか。ここまでの所ではイエスは何の譬えなのかを言っていない。普通譬えのように、‥‥は‥‥のようなものだ、と言った言い方ではない。
日本語では分からないが、もともとのギリシャ語では第一第二第三は単数で、第四は複数。つまり一と二と三の種は一粒ずつで、他の多数は良い地に落ちた、と言っていることになる。そうするとこの種を蒔く人は、目茶区茶に種を蒔いたのではなく、どこに蒔けばいいのかを良く知っていて、殆どの種をいい土地に蒔いた、すこしだけ違うところにも飛んでいったということらしい。
またこの譬えは「聞きなさい」ということばで挟まれている。3節と9節。それほど大事な譬えであるということだろう。聞きなさい、お前は聞いているか、しっかりと聞いているか、そう言われているような気がする。
解説
この譬えの解説が13節からのところに出ている。
種を蒔く人は神の言葉を蒔く。
1 道端とは、固い土地。福音をみ言葉を聞いても心の中に入ってこない人のこと。自分の経験やこの世の常識を優先する。「そんなことあるわけがない」「そんなことは今までなかった」「前例がない」
2 石だらけの土地とは、始めは熱心だが外から迫害や弾圧があるとすぐ躓いてしまう。自分に都合の悪いことが起こるとすぐに止めてしまう人。
3 茨の中とは、ある程度成長するが、世の心遣いや富の惑わしが入ってきて、み言葉をふさぐ人のこと。迫害は外からやってくるが、惑わしは人のなかからゆっくりと人間をくさらす。思い患いやこの世への執着によって信仰を捨てる者のこと。
4 良い土地とは、み言葉を素直に受け入れ、迫害や誘惑にも動じないで信仰を守り通す者か。しかし迫害や誘惑に会わない者はいない。迫害や誘惑にあってもそして倒れそうになっても、倒れてもまた立ち上がって心の中にみ言葉を持ちつづける者のことか。
ではどうやってそのようにみ言葉を受け入れれば良いのか。
ある医者がこんなことを言っている。
「人間の健康にはまず出すことが大切である。出さねば入らぬ。ところが現代人はみな入れることばかり考えて出すことをおろそかにするから病気になるのだ。呼吸でも吸おう吸おうと思って吸い込んでも十分肺にまで入らぬ。まず力一杯吐き出し、肺のなかを空っぽにすれば、吸うことなど考えなくてもおのずと空気は十分に体の中に入ってくるのである」
3節と9節に聞けとある。聞くためにはまず空っぽにしなければいけない。心の中を空っぽにして、素直に神の言を聞く、それ以外に良い地となることはできない。自分の考えに神の言葉をあてはめようとしてはいけない。自分に都合のいいところだけをとりだそうとしてはいけない。先入観を捨てて、無心になって聞かねば。でも無心にはなれんか?
この譬えを聞くとすぐに、さて私はどの土地か、と問う。しかしここはお前は道端だから、石だらけだからだめだと断罪するためにあるのではない。道端だけの人も、石だけの人も、茨だけの人も、良い土地だけの人も多分いないだろう。誰の心のなかにも、良い土地も、茨も、石も、道端もあるのではないか。み言葉が自分の心の中のどこに落ちたかを問うているのでは。自分の心の中の良い土地に落ちていなければ、そこにみ言葉を蒔きなさい、と言っているのでは。
心の真ん中にみ言葉を蒔きなさい。心の真ん中にみ言葉を置きなさいということでないか。
食べる
どんなにいいワインを持っていても、見つめているだけでは酔うことはできない、という話がある。いくら栄養のあるものを持っていても食べなければ元気にならない。おいしいものをいっぱい持っていても口に入れなければ味わえない。
聖書を大事にする、ということから聖書を粗末に扱ったらだめだ、と言うことがある。確かにどんなものでもでも粗末に扱うことは良くないが、だから聖書は汚れないところに祭っておけばいいのではない。聖書を持っていても大事そうに飾っていても、その言葉が心の中に入っていかなければ何にもならない。
聖書の言葉が、神の言葉が心の中に入っているか、心の中の良い土地に蒔かれているか、どうだろうか。
本当は聖書の言葉はあまりいい土地に蒔かないで、心の端っこにおいといたほうが今の日本では都合がいい、というか生きやすいのかもしれない。適当に、さしさわりのないところでは聖書の言葉を聞く、でも都合の悪い時にはどこかにおいといて「そうは言っても実際の生活は大変だから、いろいろと付き合いもあるし」とか言うことがある。
でもイエスは聞け、心の真ん中で聞け、と言われている。心の真ん中にこの言葉を置いておくように、と言う。イエスは言葉を私たちの心の中に蒔かれた。そしてその多くは善い土地に蒔いた、と言っている。成長して多くの実を結ぶ所にイエスは種を蒔いた。
私はいい土地か、悪い土地か、茨ばっかりか、そんなことを考えることもやめてしまって、ただ、イエスが私たちの良いところに種を蒔かれた、そのことをしっかりと聞いていきたい。その事実を受け止めたい。私たちの心の中の一番いい所をさがして、イエスは種を言葉を蒔いた。どんどん成長するところに蒔いた。とにかくそのことを考えていきたい。そしてまたイエスに言葉を私たちの心に受け止めていきたい。主よ、あなたの言葉を与えたまえ。