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礼拝メッセージより
「イエスの弟子」 2007年4月15日
聖書:マタイによる福音書 28章16-20節
十字架
イエス・キリストは十字架で処刑された。そしてそれは実は人類の罪のため、人類の罪を救うために十字架につけられた、聖書はそう語る。しかもイエスは神である、というのだ。神でありながら人間となった。なのに十字架で処刑されてしまった。でもその時にイエスの選ばれた弟子たちはみんないなかった。みんな逃げてしまった。
ところがその処刑されて死んだイエスがよみがえったと聖書は告げる。遺体の処理をするためであったと思われるが、女性達が週の初めの日に墓を訪れると、墓を封印していた石はわきへ転がされていて、墓は空っぽだった。
どういう風に復活したのか。よく分からない。どうやって石をどけたのかもわからない。けれども神は墓の前の石をどけて、墓を空っぽにしたのだ。とても太刀打ちできないと思われる困難を神がどけてくれていた。そして悲嘆に暮れていた女性達に希望を与えてくれたのだ。
祭司長の策略
イエスが十字架で死に埋葬された時、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、弟子たちが死体を盗み出して、イエスが復活したと言いふらすかもしれないからということで墓に石で封印して番兵をおいていたのに、その策は見事に失敗する。
そこで数人の番兵は事の次第を祭司長に報告し善後策を練る。そして弟子たちが死体を盗んでいったことにしてしまう。この期に及んでもという気もするが。その執念はすごい。イエスは自分たちのことを批判していた。だから何としてもイエスを悪者にしておかねば、という気持ちなのか。そしてこの話しは今日に至るまで、つまりこの福音書の書かれる時代までユダヤ人の間に広まっていた、と書かれている。
弟子たちと会う
イエスはガリラヤで弟子たちと会う。ガリラヤは弟子たちのふるさとである。弟子たちはイエスに全てをかけて、未来を託してついていった。この方こそこの世をどうにかしてくれる方だ、この方にこそついていくべきだ、との思いを持っていたのだろう。だから仕事を捨て、人生をかけてイスラエルの中心であるエルサレムまでもついていった。ところがその自分の師匠がこともあろうに十字架なんぞにつけられて殺されてしまった。
立派になって故郷に錦を飾る、気持ちもあっただろう。誰もが賞賛する立派な先生の弟子、偉大な指導者の弟子としていつかは故郷に帰ることもあるだろうという気持ちも持っていたんじゃないかと想像する。
僕なんかだと、有名人の知り合いがいたりすると自慢したくて仕方ない。立派な先生に教えてもらったなんてことも自慢したくなる。弟子たちにもそんな思いがあったのではないかと想像する。あるいは自分達がイエスと一緒に社会を変えるんだという野心もあったのかもしれない。
しかし彼らはイエスが捕まるとみんな逃げてしまった。中途半端についていっていざとなると逃げ出した、どこまでもついていきます、死んでもついていきます、なんてことも言いながら、最後にはそんな人は知らないと言った弟子もいた。弟子たちはきっとそんな挫折感を味わっていただろう。彼らにとって故郷であるガリラヤに帰ることはかなりつらいことだ。「イエスなんていう変な奴についていくからこんなことになるんだ」と言われるかもしれない。錦を飾るはずだったのにそれどころではなくなってしまった、そんな風に弟子たちの落胆も相当なものだったことだろう。
しかしそのふるさとのガリラヤでイエスは弟子たちと再会する。そこは弟子たちがイエスと出会った場所でもあった。そこがイエスにとっても弟子たちにとっても原点なのだ。ガリラヤで会うということは、その原点へもう一度帰るようにということなのかもしれない。
何もかも捨てて従ったのに、この先どうすればいいんだ、というような自分のことに目が向いていたのではないかと思う。ガリラヤに行くようにというのは、イエスの語ったことを思い出すようにということだったのではないかと思う。自分が何ができたか、何ができなかったかという思いに縛られている弟子たちに、イエスが何を語ってきて何をしてきたか、どんな人と接してきたかをもう一度思い出すようにということだったのではないかと思う。自分のことにばかり目が向いていくような状況の中で、もう一度イエスを見つめるように、イエスの言葉を思い出すようにということだったのではないかと思う。
そしてそこから新たな出発をするようにということだったのだろうと思う。ガリラヤで会うということは弟子たちにもう一度最初からやり直すチャンスを与えようとしているように見える。
わたしの兄弟たち
イエスはよみがえって婦人たちに会った時に、「わたしの兄弟たち」にガリラヤに行くように、と伝言を頼んだ。自分を見捨てて逃げた、自分を裏切った、最後の最後で見事に裏切った弟子たち、その弟子たちのことをイエスは「わたしの兄弟たち」と言っている。
弟子たちはイエスを見捨てた。しかしイエスは見捨ててはいない。イエスは決して見捨てないのだ。十字架について人類のすべての罪を清算した。救いを完成した、イエスがなおも弟子たちのところへとみずから赴くのだ。しかも兄弟として。兄弟のようにどんなことがあっても切れない関係をイエスが持って下さっているのだ。そのイエスが弟子たちの方へ赴かれる。
宣教命令
それは弟子たちを叱るためでもなく、裁くためでもない。大事な務めを彼らに託すためであった。
弟子たちに会ったイエスは彼らに、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言う。
すべての民、とはこれまた大きく出たものだ。なんだかだらしない弟子たちである。挫折し、自分を見捨てた弟子たちである。その彼らにイエスは全世界へと出ていくように、全世界で自分のことを伝えるように、と命令する。
いつも共にいる。
イエスは弟子たちに大変な命令をするだけではない。弟子たちにやらして自分は知らん顔ではない。
イエスは世の終わりまであなたがたと共にいる、との約束をしている。イエスが共にいる?本当か、見えない、見えたらいいのに。どういうふうに共にいるのか良く分からない。しかし共にいるのだ。それがイエスの約束でもある。
イエスは見えない形で弟子たちと共にいた、だからこそ弟子たちは出て行くことが出来た、全世界へと。
私たちもイエスの弟子として下さる。復活のイエスが弟子のところへ赴いたように私たちのところにも来られている。イエスの約束、世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる、それは私たちに対する約束でもあるのだ。
神の偉大な力がイエスの復活によって明らかにされた。そしてその神の力が私たちにも及んでいるということだ。その神が私たちと共におられるからだ。
この偉大な神は私たちの神でもあるのだ。