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礼拝メッセージより
「力は弱さの中に」 2007年3月18日
聖書:コリントの信徒への手紙二 12章1-10節
神殿再建
バビロンに補囚されていたユダヤ人達は、ペルシアという国によって解放され帰国の許可が出る。しかしそうすんなり帰れたわけではなかった。いない間に移住してきた外国人達との争いや、帰ることが許されたとはいえ今度はそのペルシアという国の支配下にあって、いろいろと摩擦が起きていた。
王を建てて、その元にまた自分達の国を作り神殿も再建しようと企てるが、そのことがペルシアからの独立を企てていると見られ失敗する。やっとエルサレムに帰ってきてもう一度かつての王国を復活させ、神殿を再建しようとしたのに失敗してしまう。希望が失望に変わってしまったような状況だったようだ。
そんな時にゼカリヤが語ったのが8章の言葉だった。
主がシオンに来てエルサレムの真ん中に住む、自分の民を外国から救い出してエルサレムに住まわせる、そして真実と正義に基づいて彼らの神になる、という言葉だ。
その神の言葉に励まされて、ユダヤ人達は神殿を再建するようになる。
その言葉の中に、エルサレムの広場には、再び老爺、老婆が杖を手にして座するようになる、わらべとおとめが溢れて笑いさざめく、とある。
神が祝福される時、そこには老人が広場にあふれるようになるというのだ。
年を取る
イスラエルでは、老人になるということ、老人になるまで生きているということは神の祝福であるという考えられている。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(箴言16:31) 昔の訳では、白髪は栄えの冠である、だったかな。白髪は冠だと聖書には言われている。でも今は白髪が生えることを喜ぶ人はあまりいないなあ。白髪が生えると一所懸命に抜く、抜くのが間に合わなくなると染める。そうやって白髪をなんとか見えないようにしている。
あるいは白髪が増えるをいいことだとはあまり思わない。急に白髪が増えると、何かあったんですかなんて聞かれる。苦労してるんですかなんて。
ありのまま
牧師になったばかり頃は一所懸命に牧師らしくしていた。立派で優雅で落ち着いている人間で、いつもスーツ着て、いつも笑顔で、いつも祈っていて、聖書のことは何でも知って、どんな質問にも答えて、会議の時に誰かがよく分からない難しい話しをするような時にも、分かったような顔をして、自分も分かったようなことを言わないといけないように思っていた。だから牧師の顔を作るのも一苦労だった。
そもそも牧師になる前から誰からも一目置かれるような人間でいたかった。周りの人よりも優れていないといけないと思っていた。間違いや駄目なところを指摘されるようなことをしてはいけないと思っていた。
でも疲れてしまう。いつも緊張しっぱなし。ありのままでいられない。本当の自分、ありのままの自分に自信が無い。だから本当の自分をなるべく見せないようにして、いいところだけ見せて、みんなから認められて、誰からも文句を言われないようにつとめていた。
今でも聖書のことやキリスト教のことを聞かれた時にはついつい分かったような振りをする。何でも知ったような顔をする。それは、牧師たるものそんなことも知らないでどうすると言われたらどうしよう、何も分かっていないということがばれたらどうしよう、という不安があるからだ。じゃあ何でも答えられるように勉強すればいいんだけど、勉強なんてしないで心配ばかりしていた。
これは全くしんどい。背が低いのを隠すためにずっとつま先立っているようなもので、そんなことをずっと続けることなんかできないで疲れ果ててしまう。
でもどんなに誤魔化してもだいたい本当の自分を隠し通すことなんて出来ない。すぐばれてしまう。本当はばれてしまっているのにそれでも一所懸命に誤魔化そうとするところがある。
弱さ
「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Tコリント2:3)。パウロは不安になったり恐れたりしたということをよく言っているようだ。立派なことだけを言っているわけではないらしい。
僕もいつも不安です、なんて言ったら牧師がそんなことでどうするんですか、なんて言われそうだ。実際似たようなことをいわれたこともある。牧師になってすぐにある集会で自己紹介した時、なんか頼りないと言われたこともある。実際頼りないからその通りなんだけれど、その頃はそれではいけないという思いが強かったのでそう言われたことがちょっとショックだった。
何でこんなんだろうと思う。子どもの時から人よりも優れていないといけないように言われて育ってきた。いつも人との競争の中にいた。学校の成績も、周りの者よりもいい点を取る者が人間としての価値が高くて、成績の悪い者は価値の低い人間だと思っていた。今でも少しそんな気持ちがある。だから人よりも優位に立っている時には安心して、勝ち誇ったように偉そうにしている。逆に自分が劣っていると思う時は生きる価値もないような気になってしまう。
牧師になってからも、あの牧師はいい牧師だ、あの牧師はいい説教をする、教会を大きくしたと言われるような牧師を前にすると引け目を感じてしまう。周りよりも立派な牧師でないと駄目だという気持ちがある。
少しのことですぐ落ち込んでしまい、少しのことですぐ不安になる。ちょっと間違いや足りないところを指摘されるだけで途端に落ち込んでしまう。説教がうまくできなくて後悔する。いろんな心配事があると、そのために気力がなえてきて何にもできないなんてことがある。心配することにエネルギーを使ってしまって他には何も手につかないという感じ。そうするとなんでいつもこんなに心配ばかりしてるんだろうかと自分がいやになる。どうしてこんなにプレッシャーに弱いのか、どうしてこんなに心配性なのかと自分を嘆く。何でこんなに弱い人間なんだろうと思う。弱い自分を嘆いてばかりだ。
ところが今日の聖書の個所に似たような文句がある。 『12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』と語る。
弱いことが駄目とは言ってないようだ。それどころかパウロは自分の弱さを誇る、なんてことまで言う。どうしてそんなこと言えるんだろう。
人間の価値
トゥルニエという人がこんなことを書いているそうだ。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている。」
親切、とか安心とかいった人間にとってとても大事なものは実は弱さの中にある、ということらしい。
「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。この力とは神の力ということだろうか。神の力が弱さの中に発揮されるとしたら、自分の弱さを見つめ、そこに立ち続けることが大事だということだろう。
パウロは自分自身にとげが与えられたことを書いている。それを取り去ってくれるように3回も祈ったのにとってもらえなかったと。しかしそれがとってもらえなかったのは思い上がることが無いように与えられたと言っている。
弱さを持って生き続けるということはとげを持ったまま生きるようなものだろう。ちくちくと痛む。なんて自分は駄目なんだろう、なんという憐れむべき人間なんだろうと思う、なんてだらしない人間なんだろうと思う、そんな風に心がちくちくと痛む。でも実はそれこそがとても大事なんではないか。それが無いと私たちもきっと思い上がってしまう。
力
力は弱さの中でこそ十分に発揮される。その力とはどんな力だろうか。弱い時に私たちを強くする力なんだろうか。弱い時でも神さまが強くしてくれるから大丈夫、またすぐ強くなれる、というようなことなんだろうか。そうではないような気がする。
弱さの中に発揮される力、それは愛ではないかと思う。愛する力、相手のことを心配し大切にする思い、心遣い、いたわり、そういったものがここでいう力なのではないかと思う。
そもそも神の力とは奇跡的なことを起こすものというよりも、それもあるのだろうけれど、それよりも弱さの中に、親切、思いやり、愛、を呼び起こすことのような気がする。
弱いままでいることが大事らしい。強くなる必要もないらしい。偉くなる必要もないらしい。
僕は会議がとても嫌っているが、それは結局は自分が分かってもいないのに分かったような振りをしようとしているからではないかと思った。それで疲れるんだと最近気が付いた。その癖はなかなかとれないけれど、分かった振りしなくてもいいんだよな、と思うだけでもすごく安心する。
ありのままでいいんだと思う。ありのままがいいんだと思う。そのままの私たちを神さまは愛してくれているんだから。弱いままの私たちを大切に思ってくれているんだから。正直でいることが大切なんだ。きっと。