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礼拝メッセージより
「老爺、老婆が座す」 2007年3月11日
聖書:ゼカリヤ書 8章1-8節
神殿再建
バビロンに補囚されていたユダヤ人達は、ペルシアという国によって解放され帰国の許可が出る。しかしそうすんなり帰れたわけではなかった。いない間に移住してきた外国人達との争いや、帰ることが許されたとはいえ今度はそのペルシアという国の支配下にあって、いろいろと摩擦が起きていた。
王を建てて、その元にまた自分達の国を作り神殿も再建しようと企てるが、そのことがペルシアからの独立を企てていると見られ失敗する。やっとエルサレムに帰ってきてもう一度かつての王国を復活させ、神殿を再建しようとしたのに失敗してしまう。希望が失望に変わってしまったような状況だったようだ。
そんな時にゼカリヤが語ったのが8章の言葉だった。
主がシオンに来てエルサレムの真ん中に住む、自分の民を外国から救い出してエルサレムに住まわせる、そして真実と正義に基づいて彼らの神になる、という言葉だ。
その神の言葉に励まされて、ユダヤ人達は神殿を再建するようになる。
その言葉の中に、エルサレムの広場には、再び老爺、老婆が杖を手にして座するようになる、わらべとおとめが溢れて笑いさざめく、とある。
神が祝福される時、そこには老人が広場にあふれるようになるというのだ。
年を取る
イスラエルでは、老人になるということ、老人になるまで生きているということは神の祝福であるという考えられている。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(箴言16:31) 昔の訳では、白髪は栄えの冠である、だったかな。白髪は冠だと聖書には言われている。でも今は白髪が生えることを喜ぶ人はあまりいないなあ。白髪が生えると一所懸命に抜く、抜くのが間に合わなくなると染める。そうやって白髪をなんとか見えないようにしている。
あるいは白髪が増えるをいいことだとはあまり思わない。急に白髪が増えると、何かあったんですかなんて聞かれる。苦労してるんですかなんて。
そんな風に白髪が増えること、年を取ることはあまり喜ばれない。
お寺の掲示板に書いていた「人は長生きをしたいというくせに、年を取りたくないという」だったかな、そんな言葉を思い出す。するどい指摘。長生きをすることは幸せだと思い、長く生きたいと思う、けれど年は取りたくなと思っている。年を取ってしまうことを嘆いていることが多い。
なんとなく年を取ることは悪いことだと思っている。悪いことだけど自然の摂理だから仕方ないという風に思っていることが多いのではないか。教会でも、年を取ったからあれが出来なくなった、これも出来なくなった、あそこもここも悪くなったという嘆きを聞くことが多い。確かに年を取ることは実際大変な面倒なやっかいなことが増えていくことではあるけれど、ただただそれだけのことなんだろうか。いいことは全く何もないのだろうか。
森毅という元京大の教授は「老人のただ一つの大事な役目は、年を取ることのすばらしさを若者に伝えることだ」というようなことをテレビで言っていた。
年を取ることのすばらしさとは何なのだろう。
先日こんな言葉を目にした。
「老齢は山登りに似ている。登れば登るほど息切れするが、視野はますます広くなる。」(イングマール・ベルイマン)
年を取ると何が見えてくるのだろう。
聖書教育にこんなことが書いてあった。『高齢期は喪失の時期です。体力、健康、記憶力、社会的地位、それらが失われていきます。愛する者との死別もあります。「高齢が神の栄光を表す時」という時、それは単なる長寿の賛美ではなく、喪失の苦しみ、悲しみを知る者と共に主がいてくださるという慰めです』。
年を取ると自分からいろんなものが取られていく。いろんな飾りがどんどん取られていく。そしてそこに残っていくものが本当に自分なんだろう。本当の自分自身が残されていくのだろうと思う。
自分自身と神との間にあるものもそれだけ取られていくのかもしれない。
神さま、私はこれだけのことをしました、あれもこれもやっています、こんなに一所懸命にやってます、こんなに立派にやってます、そんな神に対するおみやげもだんだんとなくなっていく。そして何もない自分になっていくのかもしれない。
健康を守られて感謝します、とも言えなくなるのだろう。感謝できることがまるで思い浮かばなくなるのかもしれない。そうすると私たちに残されるのは苦しみや悲しみばかりかもしれない。私たちの心の奥底には苦しみや悲しみが横たわっているような気がする。
死ぬことの恐れもだんだんと増えてくる。それは別れの悲しみでもあるのだろう。
しかし主イエス・キリストは、そんな苦しみや悲しみしかないような私たちと共にいてくれている。そのことがだんだんとはっきりしてくる。それが年を取るということ、年を取ることのすばらしさなのではないかと思う。神さまの慰めを一番知っているのは年を取った人たちなんだろうと思う。
ゼカリヤが伝えた神の約束は、エルサレムの広場に老爺老婆が座し、わらべと乙女に溢れ、笑いざわめくというものだった。教会はそんな集まりなのだろうと思う。老人が年を取ることのすばらしさを語り伝える、神の慰めの真髄を語り伝える、それが教会なのだろう。