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礼拝メッセージより
「和解の言葉」 2007年3月25日
聖書:コリントの信徒への手紙二 5章17-21節
外見
外見で人を判断するということがよくある。どんな服を着ているということもあるだろうし、今までどんなことをしてきたか、どんな成果を上げてきたかなんてこともあるのだろう。この手紙を書いたパウロは、12弟子ではない、イエスの直接の弟子でないということで責められていた。そしてパウロを責める人たちの影響でパウロのことを軽んじる人たちがコリントの教会にもいたようだ。
パウロは大勢にバプテスマを授けたわけではなかったらしく、そのために低く見られるようなところもあったらしい。おまけに見かけもそれほど大したこともなく、話しもそんなにうまくなかったらしく、そうするとあまりパットしない人間という見られ方をしていたらしい。そこに流暢な説教をするかっこいい伝道者が現れ、パウロはイエスに選ばれた弟子ではない、自分で使徒だと言っているが12使徒とは違うのだ、なんて言われると、そっちの方へ気持ちが揺れるのも無理からぬことかも。おまけによく訳の分からない異言なんてのを語るなんてことも非難されていたらしい。
パウロが何を語るかよりも、生前のイエスの弟子ではないということばかりを問題にしてしまう、そんな外見ばかりにとらわれてしまう人の影響を受ける人たちがコリントの教会にもいたようだ。
肉によって
パウロは、「それで私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(5:16)という。肉に従って知るとは、外面的なものによって、外見によって、才能とか地位とか名誉とかそんなことも含めた外見によって知ることはもうしない、と言う。キリストを肉に従って知るというのは、生前のキリストを見たとか話しを聞いたとか、そんな風な知り方をしないということなのだろう。
キリストについては、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを神と和解させてくれた、そういう知り方をするというのだ。まわりの人についても、そのキリストによって罪を赦された者、それほどに神に愛されている者、そんな者同士、そういう見方をするということだろう。
ありのまま
そしてパウロは「神はキリストを通して、わたしたちをご自分と和解させ、また若いのために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによってご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(5:18、19)と語る。
神はキリストを通して私たちと和解させてくれたというのだ。和解させてくれたということはそれ以前は和解していなかった、対立していたということだ。この和解とは、キリストを通しての和解、キリストの十字架を通しての和解である。ならばただ形だけ、表向きだけの和解ではないだろう。英語の聖書ではfriendになる、つまり友になることと訳している聖書もあるみたい。この和解とは対立がなくなるだけではなく友となることというイメージなのだろう。
自分の本当の姿を知られたくないと思う気持ちがある。本当のことを知られたら、それで相手が自分のことを嫌ってしまうのではないか、変な奴だというような目で見るのではないかというような恐れがある。だから人に対して自分のいやな部分を見せないようにし、自分のいいところだけを見せようと努力する。
でもそうそういつもうまく行くわけではない。いやだと思っているところを見せてしまった時、つまり任せとけと言ったのに上手にできなかったり失敗したりしたとき、頼まれたことを忘れてしまったりした時、そんな自分の悪い部分と思っている所を知られてしまったような時に、相手が自分のことをどんな風に見るのかということがとても心配になってしまう。相手にすまないことをしたということを悔いるよりも、相手がそれで自分のことをどう思うかなんてことばかりを気にしている。
そんな風にへまをしては相手がどう思うだろうかということをやたらと心配して相手がどんな態度になるかということをずっと心配していた。連絡しないといけないのに忘れてしまうような時がある。それに気づいた時にすぐ連絡すればいいのに、遅れてしまったことに対して相手はなんと思うだろうか、そのことを責められるんじゃないだろうか、なんて心配して連絡しずらくなってしまって、余計にまた遅らしてしまうなんてこともある。本当に馬鹿な人間だと思う。そしてそんな自分がほとほといやになる。
ある時また連絡するのを忘れたことがあった。その時も相手がどう思うかと気にしてたのだが、時ふと考えた。こんな馬鹿なことばかりしているこれが自分の本当の姿じゃないか、その自分の姿を見られても、本当の自分を見られただけじゃないか、それで怒られようが嫌われようが、それが本当の自分の姿だったら仕方ないじゃないか。本当の姿を隠そうとするから余計な気を使ってしまうのだ。そもそもいいところしか見せない人間関係なんて本当の人間関係じゃないではないか、失敗ばかりのだらしない、そんな本当の自分を相手に知ってもらうことから本当の人間関係が始まるのではないか、そんなことを思った。そうすると、相手が自分を嫌うのではないかというような恐れも小さくなって、悪いところを隠そうとする変な気負いも少なくなってすごく楽になった。
自分のありのままの姿を知られているということは恥ずかしいことのように思うが、でもそれを恥ずかしいと思うのは自分自身がそう思っていることでしかない。こんなことを知られたら嫌われると思って一所懸命に隠していることも、そのことを自分自身で嫌っているから隠しているだけということが多いのだろう。本当は隠す必要もないのに、知られてはまずいと自分が思うから必死で隠す。でもそれはとてもしんどいことだし、とても窮屈な生き方だ。案外嫌っているのは自分だけなんてことも多いような気がする。
自分の失敗を人に話せる人が羨ましいといつも思うが、自分の失敗したことを話せないのは、案外自分の失敗を、そして失敗する自分を、自分自身が赦せないからなのだろう。
教会では、キリストによって全ての罪は赦されていると言う。神様には赦されていると思う、けれども自分は赦さない、そんな面が結構多いのかもしれない。自分で赦せないから、周りからも責められるのではないかと怯えているのだろう。
でもこんな自分と神は和解してくれているというのだ。
和解
パウロは、キリストによって世をご自分と和解させて下さった、だから神と和解させていただきなさい、と言う。
神自身が歩み寄って来て下さり、私たちと和解してくださっている。キリストによって私たちの責任を全部赦して私たちの罪を全部赦して、私たちとの正しい関係を造り直してくれている。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく想像された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と言っている。全部神から出たこと、全部神がしてくれたことだというのだ。
キリストは奇跡を起こしてみんなを驚かせびっくりさせて、ついてこい、ついてこないととんでもないことになるぞと脅すために来たのではない。神と私たちを和解させ、私たちを神と共に生きることができるように、神のために生きるようにするために来られた。そのことを受け入れること、それがキリスト者というものだ。ただイエスによって赦されて神との正しい関係に生きている者こそがキリスト者なのだ。そしてその和解の言葉を神は私たちに託されているというのだ。神は私たちのすべてのことを知っている、全てを受けとめ赦してくれている。私たちはその和解の言葉を預けられている。
何よりその和解の言葉を受け入れて、そのことを感謝し喜びを持って生きること、それこそが私たちにとって大事なことなのだろう。
福音は私たちにもっともっと喜びを与えるもの、私たちをもっともっと自由にするものだと思う。そこから伝道する力も沸いてくる、教会に人を迎えようとする気持ちも沸いてくる、そしてみんなが一緒に生きる喜びも沸いてくるのだと思う。