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礼拝メッセージより
「何もない」 2007年3月4日
聖書:マルコによる福音書 10章13-16節
邪魔
人々が子どもたちをイエスのもとに連れてきた。イエスに触れていただくためだった。弟子たちはそのことを叱った。しかしイエスはこれを見て憤り、弟子たちに言った。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。この訳はあまり憤っている訳とは思えないが。だからもっともっとすごい調子で言ったのだと思う。そして子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
最近でこそ、子どもの権利条約とかいうのが出来て子どもを大事にしようという風にはなっては来たが、当時は女の人と同様に子どもは大事にはされていなかった。というか一人前の人間とは見なされていなかった。さほど役にも立たないとなると、ただうるさいじゃまな存在でしかなかったのかもしれない。ましてイエスにとっては足手まといでしかない、と弟子たちは思ったのだろう。たぶんそれは弟子たちのイエスに対する配慮だったのではないか。イエスは命がけの大仕事にでていくところなのだ。実際もう少し後でエルサレムに乗り込んでいく。男が勝負を掛けるときに女子どものことなどかまってはいられないんだ、という気持ちがあったのかもしれない。イエスに仕える弟子たちにとってはそれは大事な仕事と思えたのかもしれない。今でもそういった風潮はあるのではないか。
たいそう大事なことになると、女子どもは排除されたりする。女人禁制のものがいまだにある。そして大人なら構わないが、子どもの来るところではない、ということがある。それが宗教的になるとことさら大人の男だけのものになったりする。
今の礼拝でも、子どもを静かにさせておくことが大事だったりする。少なくとも説教の邪魔にならないように、子どもは後ろの方へ、あるいは別の部屋で、ということもあるのではないか。説教者に気を使って、あるいは周りの人の迷惑にならないように、話を聞きに来ている人の邪魔にならないように、そういう気持ちでいろいろと配慮する。邪魔なのだ、やっぱり。邪魔だから近づけないようにするわけだ。
しかしイエスはその弟子たちの行動に憤った。ただ叱ったとかではなく憤った。これは、このことはただごとではないということだ。でも何でイエスはそんなに憤ったのか。
持つこと
イエスは「子ども達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語った。神の国なんて言うとなんだかとても信仰熱心な人たちの者のような気がする。しかし子どもたちが熱心だったわけではない。子どもたちに特別の信仰があったわけでもない。彼らは大人に連れてこられてそこにいるだけの存在だ。しかし神の国はそんな子ども達のような者たちのものだというのだ。子どもこそ神の国の住人だとすれば、神の国は何も持っていない者がいくところと言えるのかもしれない。
ある人はこんなことを言っている。『人はいろいろなものを持ちたがり、ついには信仰をも持ちたがる。』
人は何もかも持とうとする。いろんなものを持つことで自分の価値が出てくるような気持ちがある。これこれができる、こんな有名な友達がいる、というふうに能力や財産や友達をいっぱい持っていることに価値があるというように思っているのではないか。そして一所懸命に多くのものを持とうとしているのではないか。そして信仰もその中にひとつになっているのかもしれない。
大きな篤い信仰を持つことを目指すようなところがある。しかし、信仰は持つものだろうか。信仰は握りしめていなければならないものなのだろうか。信仰とは必死でつかんでいなければならないようなものなのだろうか。
何もない
イエスは子どもを「神の国はこのような者たちのものである」と言って抱き上げて祝福した。イエスは何もない、何も持っていないことを求めているのではないか。必死で何かを持とうとしている人に対して「そのままに」と腹を立ててどなっているのではないか。「何も持っていない、何の飾りもない、そのままのおまえ自身を私は求めているのだ」と言っているのではないか。
神の国は何もない人のもの、子どもたちのように、「信仰を持つこと」さえ問題にしないような者たちのものなのかもしれない。僕らが信仰だ、と言って大事にしているものは、それはただの「わたしは信じているんだ、わたしはこんなに信じているんだ」と言う思い、自己満足か自己陶酔なのかもしれない。そしてそこではえてして「こんなに信じているのにどうして神さまは何もしてくれないのか」という不満になってしまうのではないか。
口語訳は子どもを幼子と訳している。生まれたばかりの乳飲み子は全く一人では生きていけない。自分を生かしてくれる人がいなければ生きていけない。しかしだからといって自分の世話をしてくれる人、たとえば母親に対して何かをするわけでもない。ただ与えられる物をもらうだけ。でも母親を絶対的に信頼している。
信仰とは神と私たちのそういう関係なのではないか。一生懸命何かをすることが信仰なのだろうか。必死に神を拝み倒すことが信仰なのだろうか。あるいは必死に信じよう、信じようとすることが信仰なんだろうか。もし自分のがんばりによって得られた物こそが信仰だとするならば、子どもには何の信仰もないし、そういう信仰に関しては全くほめられるところもないだろう。
しかしイエスは逆に子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、と言われている。神の国を受け入れる人がそこに入るといわれている。神の国を受け入れることこそが信仰なのかもしれない。何かをすること、何かを持つことではなく、ただ受け入れること、それこそが信仰なのだろう。だから信仰は男だけのものでも大人だけのものでもないし、元気にいっぱい奉仕できる者だけのものでもないし、いっぱい献金する者だけのものでもないのだ。信仰の名の下に、お前なんか役に立たないから、お前なんか邪魔なだけだから、と言って人をのけ者にする、そのことに対してイエスは憤ったのではないか。
信仰とはただイエスのもとにいることだけなのだ。それ以外に私たちには何もない。信仰ということについて私たちは何もない、何も持っていない。ただここにいるだけだ。
喜び
ある人がこんなことを言っている、『私たちはいつもこの二つの責め言葉におびやかされている。ひとつは「信仰がなければだめだ」。もうひとつは「そんな信仰ではだめだ」。』
こんな信仰ではだめだ、と思っているクリスチャンは多分多いと思う。謙遜でそう思う人も中にはいるだろうが、こんな自分ではだめだと思って自分を責めている人は教会の中にも多いのではないか。そしていつもびくびくしている。何もない自分のことをみんなに知られてしまうのではないか、何もない自分のことを責められるのではないか、と。
でもイエスはきっと、何かをもっているかどうかは問題ではない、何もないおまえが大事なのだ、何かを持っているお前が大事なのではない、何もないおまえが私にとってはとても大事なのだ、そのままのおまえ自身が大事なのだ、そう言われているのではないか。そう言ってくれているイエスと共にいること、それこそが信仰なのだろう。そこが神の国なのだろう。