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礼拝メッセージより
「補い合うこと」 2007年2月25日
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章1-16節
からだ
教会はキリストを体である。キリストを頭として、教会に集められた人たちはそれぞれ体の一部分である、ということは他の聖書にも書かれている。コリントの信徒への手紙一12章12節以下では、体にはいろんな部分があって一つの体となっているので、みんなが同じになったら体にはならないし、どこか他の部分に向かって、お前は要らない、なんてことも言えない。そして弱い部分こそ大事なのだ、と書かれている。
そして、「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」と言われている。そして教会は体にいろんな部分があって一つの体となっているいるように、いろんな人が集められている。みんなそれぞれに違っているから一つのキリストの体となっている。そしてみんなそれぞれに大切なのだ、と書かれている。
いろいろな部分
みんながそれぞれに違っている、けれども違っていながらひとつの体を形作っている。違っていないといけない。みんなが同じではいけない。みんな同じかっこうして、同じ考えを持っていてはいけない。それでは体として成り立たない、教会としても成り立たない。違う人間が集まってこそ教会となる。
みんなが同じことをしていてはいけない。エフェソの信徒への手紙には、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされた」と書かれている。
みんなが大事
いろんな部分が集まってやっとひとつの体として成り立つように、違う人間が集まって教会となる。体の部分がそれぞれに大事なように、教会の中の人間もそれぞれが大事な一人一人なのだ。あってもなくてもどうでもいいような者はいない。
ケガをして初めて体の大切さが分かる。骨折したりすると初めてそこの大切さが分かる。指先を少し切っただけでも大変な思いをする。大切さはケガでもしないとわからないことがほとんどだ。体にはどうでもいい部分なんて多分ないのだろう。
同じように教会にもどうでもいい人はきっといない。
私なんていても何の役にも立たないから、と言う人が教会にもいる。あの人のように立派なことができない、献金もできない、能力もないという人がいる。教会の役に立たない、社会の役にも立たない、という人がいる。
でも私たちはキリストの体の一部分なのだ。役に立っているかどうか分からないからいてもいなくても関係ない、なんていう部分はない。キリストの体にはそんな部分はないのだ。
16節では、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」と書かれている。ひとつ抜けると補い合えない、組み合わされないのだ。
コリントの信徒への手紙では、弱い部分こそ大切なのだと言っている。人間的に見て、必要ないと思えるような弱い人こそが実は一番必要なんだ、というのだ。
今の社会はだれもが弱くないことを目指している。力を得ることを目指している。
『近年、とみに強調されてきたのは「強さ」や「力」の鼓舞である。子どもたちは「速さ」と共に「強さ」を要求されて育てられている。「負けちゃいけないよ」「この競争社会を生き抜くために」「生き残りをかけて」いずれも強さの強調である。しかし、それに比例して社会全体から慎みや礼儀、思いやりやいたわりといった人間関係の基本的な要素が失われていったことは明らかである。とにかく勝てばよい、もうければそれでよいのである。しかし、私たちは「誰も信用できない」という心の孤独を体験することになってしまったのである。』
『ところで、トゥルニエはこの本(強い人と弱い人)の中で次のように言っている。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている」』 (「いのちのことば」 97年1月号)
聖書が「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っている通りだ。
自分は何もできないから、何の役にも立たないからだめだ、と思う必要はない。その謙虚さはとても大事だろうが、その謙虚さを持ち続けてできることをしていけばいい。できないことに固執することはない。できることをすればいいのだ。礼拝にいることが一番大切な奉仕だということを聞く。
「土方殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」という都々逸があるそうだが、最近よく思う。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ。皆で礼拝行かねばよい。」(字余りかな?)
礼拝に来るだけで何も奉仕できない、と言う人がいるが、そんな思いを持って礼拝に来る人が牧師を生かしていると思う。
お互いを必要としている
また私たちはお互いが必要である。ひとつの部分がないと体がが成り立たないように、誰もが必要である。またからだのひとつの部分が調子悪ければ体全体の調子も狂ってくるように、一人の人が苦しむことは教会全体の苦しみでもある。そしてお互いに補い合うことが大切なのだ。きっと補い合うために私たちはこの教会に集められている。
世間では人に迷惑をかけないことを最も大切なこととしているような風潮がある。でもそれは先ほどの弱いことを排除することと繋がっていると思う。迷惑をかけでもいいのだ。迷惑をかけていいと思うことは迷惑をかけられてもいいと思うことでもある。でもそれが補い合うことなのだと思う。愛し合うということは迷惑をかけたりかけられたりすること、補い合う、支え合うことなんだろうと思う。
教会の目的
『一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。』(「神の風景」藤木正三)
いたわり合って、調和すること、それが教会の目的だ。そのために私たちは集められている。そのために一つにされている。
私たちはみんな間違いも足りなさも罪も持っている。みんないっぱい持っている。そんな罪人の集まりが教会である。互いに愛し合うこと、いたわりあうこと、それが私たちの教会にとって目指すところだろう。