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礼拝メッセージより
「不健全」 2007年2月18日
聖書:使徒言行録 6章1-15節
健全?
子どもを二人以上持ちたいと思う若者は健全だと大臣が言ったそうな。とすると夫婦と子どもが二人以上いる家庭が健全な家庭でそれ以外は不健全な家庭ということになるのかな。なんてひどいことを言うもんだと思いつつ、どこか似たような意識を自分も持っていることを思う。その所謂健全な家庭になっていないことに対してどうしてなのかという目で見てしまうところがある。結婚してもなかなか子どもが産まれない夫婦に対して、子どもはまだなの?どうして?なんてことをよく聞く人がいるが、それも子ども持たないことは不健全なのだという意識があるような気がする。
ホテルで結婚式をして気づいたことがある。それは新郎新婦の両親のだれかがいないことは珍しくないことだ。新郎新婦とその両親がそこにいるのが当たり前のように、それが健全な姿であるような意識があったけれど、世の中必ずしもそうではない。健全な姿なんてあるんだろうか。自分が勝手にイメージしているだけのような気がする。
7人
教会は健全なところなんだろうか。
今日の聖書を見ると、教会の中に不満が起きたことから、教会では食事の世話をするための人を選ぶことにしたという。教会の中で、貧しい人のためにお金などを集めて、それを配っていたらしい。そしてその時に、ギリシャ語を話す人たち、つまりパレスチナから離れていて、また戻ってきた人たちが、ヘブライ語を話す人たち、つまりずっとパレスチナにいた人たちよりも軽んじられていると言ってきたというのだ。教会の中に少し対立があったらしい。
4章32節以下を見ると、教会ではすべてを共有していた、と書かれている。教会で集めて、貧しい人や困っている人達、食事を取れない人達のために分配していたらしい。しかしギリシア語を話すユダヤ人、つまり一度パレスチナを離れていてヘブライ語の話せない人達から、ずっとパレスチナに住んでいたヘブライ語を話すユダヤ人達に対して苦情が出たという。毎日の分配のことでギリシャ語を話す者たちの仲間のやもめたちが軽んじられているというのだ。
イエス・キリストの12弟子を中心として出来たばかりの教会は、いろんなものを共有していた教会だったようだが、それでも何もかもうまくいっていた訳ではない。何も問題が無かったわけではない。やっぱり教会も、何時の時代もいろんな問題を抱えていたということのようだ。
そんな問題が起こってきたために、教会では霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選ぶことになったという。この7人に食事の世話を任せて、12弟子たちは祈りと御言葉の奉仕に専念できるようにしようとしたということが書かれている。
12弟子たちは、食事の世話や日々の分配のことなどに構っていたくない、そんなことは誰か担当者を決めてその人達にやらせておこう、ということにしたように見える。そして自分達は祈りと御言葉の奉仕に専念することにしたと。
そこで信仰と聖霊に満ちている人達を選んだと書かれている。ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてニコラオ。合計7人。みんなギリシア名だそうだ。みんなギリシア語を話す側の人だったようだ。
執事?
これが今の教会の執事とか役員とか言われる働きに繋がっている、ということがよく言われる。しかしここで僕は困っている。
彼らがここで書かれているように、祈りと御言葉以外のいわば教会の雑用に専念していたかというとどうもそうでもないようだ。使徒言行録に7人全部のことが書かれているわけではないけれど、6章8節以下にはその中のひとりであるステファノの話しが長く書かれている。
ステファノは7人のリーダー格だったようだが、ユダヤ教の人たちと議論をして捕まり、ユダヤ教の最高法院に引いて行かれてしまう。しかし7章を見るとステファノは最高法院で、つまりユダヤ教の最高指導者の前で説教までしている。ここでは旧約聖書を要約したような話しをして、ユダヤ人達がいかに神に逆らってきたか、そして今も逆らっているかという話しをしている。堂々と話したようだが、その所為でユダヤ教の人達の怒りを買って処刑されてしまっている。
もう一人、フィリポのことが8章4節以下に書かれている。そこを見るとフィリポもいろんなところでキリストを宣べ伝えたことが書かれている。また8章26節以下では、エチオピアの宦官に聖書を解き明かしてイエスのことを伝えて、この宦官にバプテスマも施している。
7人は祈りと御言葉以外の雑用のために選ばれたように書かれているけれども、実際はどうやらそうではないらしい。祈りと御言葉という高貴な仕事を担当する12弟子の下で、下世話な仕事を担当する執事役として選ばれたというわけではないらしい。
エルサレムのキリスト者の集まりの中に、ヘブライ語を話す一派とギリシア語を話す一派があってどうやら対立していたみたいなのだ。ヘブライ語を話す一派の代表が12使徒と呼ばれる12弟子であるのに対して、ギリシア語を話す一派の代表として選ばれたのがこの7人の者たちだったようだ。本当は祈りと御言葉を担当する者と、その他の雑務と担当する者という風に役割分担をしたというようなことではなくて、ギリシア語を話すグループがリーダーを選んだということだったらしい。
そういうことで、執事とか役員とかいう意味づけを今日の聖書の所から読み取ることができるのかと悩んでいる。執事のことをギリシア語でディアコノスというそうだ。英語ではディーコンかな。でもこの6章にはそのディアコノスという言葉は出てこないんだそうだ。7人がディアコノスに、つまり執事に選ばれたとは書かれていないそうなのだ。
このエルサレムのキリスト者の集会とは、いわば最初の教会なわけで、教会は最初からそんな問題をはらんでいたということのようだ。あんまり健全な集まりではなかったようだ。聖書にも、義人はひとりもいない、なんて書かれているように、教会も罪人の集まりである。罪を持った不完全な人間、いろんな間違いや失敗や傷を持った人間が集まっているのが教会だ。不健全な者が集まっているのが教会だ。しかしそんな者が神に愛されて、赦されて、生きていく、それが教会だ。仲違いしたり、対立したりすることもある。しかしそれでもお互いに神に繋がっていく、それが教会なのだろう。
私たちの神さまは私たち自身の間違いも罪も痛みも弱さも全部ひっくるめて私たちを抱きかかえてくれている。そして私たちの神はきっと対立も仲違いも包み込んでいくのだと思う。
説教を金曜日までに準備するという牧師の話しを聞くと自分がいやになる。家族みんなでドライブに行くのをみると幸せそうでいいなと思う。いろんな活動をしている教会を見ると、自分の教会は駄目なんじゃないかと思う。となりの芝生が青いのもあるけれども、自分のところの駄目さばかりに目が向いてしまいがちだ。
でも不健全な私たちを神は支えてくれている。だから健全にならなければいけないとあがくよりも、隣の誰かと同じようにしないといけないとあがくよりも、不健全な私たちを神が支えてくれていることを、このままの私たちを神が愛してくれていることを喜んで感謝していくことの方がいいのではないか。
自分の駄目さを見ることよりも、神が自分をどう見ているかを知ることが大切だろう。あなたが大切だ、あなたを愛している、神はそう言っている。