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礼拝メッセージより
「神の民」 2007年2月4日
聖書:ペトロの手紙一 2章1-10節
隅の親石
昔の家は、まず柱が沈んでしまわないように基礎となる石を地中に据え、その上に柱を立てていたそうだ。家の四隅や角になるところに穴を掘り、家全体の重みに耐える丈夫な石を安定させる。土を掘り返し、確かめながら固定させ、その上に柱となる丸太を固定する。
その石は、大半が地中にあるので、地上からはその大きさも分からなくなる。けれどもその石が家を支えることで家は長い間そのまま建っていられる。
『「隅の親石」とは「石造建築で最後に隅に置く押さえの石」』と書いていた資料もあったが何のことかよくわからない。しかしとにかく隅の親石とは、地下で家を支える大事な石のことのようだ。
どんな土台の上に家を建てるのかと言うことはとても大切なことだ。テレビでも時々欠陥住宅のことや放送している。その中には基礎からいい加減に作っている家もある。基礎がしっかりしてなくて家を支えきれていなければ家は傾くか倒れるかしかない。基礎は一番大事なもののようだ。
人生の基礎
人はみんな誰でも家と同じように何かの上に立っているように思う。
人もしっかりとした基礎の上に立っていないと、少しの揺れですぐ傾いてしまう。何もかも自分の思い通りに順調にいっている時はそんなことはないのかもしれない。いい学校へ行っていいところに就職していい人と結婚して言い子どもを持って、なんて何もかもうまくいけばいい。病気もケガも全くなくてあらゆることが順風満帆だったら、基礎がどうかなんてあまり関係ないのかもしれない。
でもそんな何もない人生なんてあるわけがない。思い通りになんていくわけないし、病気をしたりケガしたりすることもある。失敗したり挫折したりする、それが人生だ。
大きな地震が起こった時にはじめて家の基礎の大切さが分かるように、いろんな災いや苦しみにあった時に始めて人生の基礎、人生の支えの大切さが分かる。
では人は何を支えとして生きていけばいいのか。どんな基礎の上に人生を建てていけばいいのか。聖書はそのしっかりとした基礎となる石はイエス・キリストであると言っている。イエス・キリストが人生をしっかりと支える親石であると言うのだ。
見えない
しかし基礎は基本的に見えない。新しく建つ家を見て、大きい家だな、おしゃれな家だななんて思うことはあっても、立派な基礎だななんて言うことはあまりない。普段生活するにはまるで見えない、ほとんど気にすることもないところが基礎だ。でもそんな見えない部分が本当は一番大切なのだ。
私たちは見かけの部分を気にすることが多い。どこの学校へ行ったか、どこの会社に言っているか、地位や名誉や、そんな見える部分にはとても気を遣う。気を遣うのは別に構わないとは思うけれども、そればかりを気にして土台のことを忘れてしまっているとしたら大変なことだ。人生において、見えるところを立派にしたとしても、しっかりとした支えの上に建てていなければ少しの揺れで傾いてしまう。
聖書はイエス・キリストこそが、人生を支えるしっかりとした石であると告げている。そしてこの人生の支えはやっぱり見えない。私はこんなしっかりとした支えの上に建ってます、なんて掘り返して見せられるようなものではない。これがイエス・キリストです、と見せられるようなものではない。我が家のカーテンはこんなに素敵なんですよ、なんて言う風に見せられない。でもイエス・キリストの上に人生を支えるならば、人生をしっかりと支えてくれる。
人生だから雨が降ることもあるし嵐になることもある。しかしどんな嵐でもイエス・キリストの上に建っているならば大丈夫だというわけだ。嵐の後でもしっかりと建っているで初めて土台の確かさが分かる。
人生が傾いていたり、倒れていたりしているならば、イエス・キリストの上にもう一度建て直せばいい。きっとイエス・キリストは、私の上に建てなさいと言っている。もう一度私の上に建ててごらんなさいと言っているのだろう。私に繋がって、私の言葉を聞いて生きなさいと呼びかけている。私の憐れみを受けて、神の民として生きなさいと招かれている。