前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「心の内にキリストを」 2007年1月28日
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章14-21節
説教
最近説教ができない、大変だっていう話しをよくしている。実際大変だ。今は「聖書教育」に沿って聖書を選んでいるが、最近特に難しい。聖書教育で選ばれている聖書の箇所がどうも説教するには難しすぎるような気がする。これは聖書教育を作っている人たちが偉すぎているから、彼らはどんなところからでも説教できるかもしれないが、俺のような才能のない人間には訳がわからないじゃないかなんて思ったりする。
あるいは聖書教育の問題ではなく自分自身の問題なのかとも思ったり。説教するには信仰が足りないのか、聖書読んだり祈ったりする時間が足りないからなのかも、そもそも祈ってないじゃないかなんて思ったりする。
先日昔の週報の裏のコメント(牧師のひとりごと)を読んでいたら、1999年や2000年位のところにやっぱり説教ができないで大変だっていうことが書いてあった。何年も前から説教は大変だったんだことに気づいた。というか最初から大変だったな、説教は。
引退した牧師の中には、毎週の説教をしなくなることが淋しいという人もいるみたいだが、説教しなくてもいいのは本当にいいよ、という人もいた。説教しなくていいのは本当にいいよって言える状態に早くなりたい。
そんなこといいつつ、そのうち説教もさほど苦にならずに出来るようにならないかと期待している。神の力によって説教の言葉がどんどんわいてくるようにならないのかと期待している。けど、どうもそんな日は一生来ないようだ、それなら苦労してやるしかないかと思うようになってきた。
栄光
「どうか、御父がその豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(16、17節)
パウロはエフェソの教会の人たちに対して神がそうしてくれるようにと祈っている。ということは、神は豊かな栄光に従って、聖霊によって力をもって私たちの内なる人を強めることができる、そして私たちの心の内にキリストを住まわせることができるということだろう。
内なる人
心の内にキリストを住まわせる。キリストは心の内に住んでくれる。どこか遠くにいて、高い空の上に住んでいて、望遠鏡を使って私たちがどんなことしてるか監視しているというわけではない。私たちの心の中にいてくれている。いつも私たちと共にいてくれている。
そうすると大声出して、神さま〜、イエスさま〜って叫ばないと聞こえないわけではないということだ。心の中にいてくれているならば、神はなんでも私たちのことを知っているということだろう。そうすると私たちは自分に必要なものをなにもかも神にお願いしないといけないわけではないということだ。今日の朝ご飯には、ご飯とみそ汁と焼き魚と漬け物とが必要ですから与えてください、なんていちいち注文しないといけないとしたらえらいことだ。神さまは私たちに必要なものはちゃんと知っている。そして必要なものは与えてくれる。イエスも「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイによる福音書6:7-8)と言っている。それは産まれたばかりの赤ん坊のようなものかもしれない。赤ん坊は親に対して、あれとこれをしてくれ、なんて言わない。言わないけれど親は赤ん坊に必要なものを知っていて与えてくれる。神さまは親よりももっと私たちに必要なものを知っている。そして何も言わなくても必要な時に必要なものを与えてくれる。
だから祈りはあれこれ注文することよりも、神が心の中にいてくれることを感じること、神が内なる人を強めてくれていることを感じることが大切なのかもしれないと思う。沈黙して呼吸をする度に神が自分の中に入ってくれることを感じることが大切だ、というようなことを書いている祈りの本があるが、確かにそうなのだという気がする。
ヨハネの黙示録3:20に、「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」という言葉がある。戸口に立っているキリストを私たちの心の中に迎え入れる、そしてキリストと共にいることを楽しむ、それが祈りなのではないかと思う。
そしてキリストがいつも共にいてくれるならば、私たちは決してひとりぼっちになることはない。
自分が失敗したり、うまく行かないことがあったりすると自分を責める。
子どもの頃からずっと引っ込み思案だと言われてきた。もっと積極的になりなさい、もっと発言しなさいと言われ続けてきた。でも子どもの頃から間違ったことを言ってはいけない、おかしなことを言ってはいけない、いつも正しい判断をしないといけないという気持ちが出来上がっていたのでほとんど発言なんかできなかった。100%正しいと思えることしか言えなかった。
その習性が今でもある。今でもちょっと発言するのにもとても勇気がいる。思っていることはなるべく言うようにしようと結構努力しているけど、この前もPTAでも、研修会でも発言する時は心臓バクバク、時には腰痛がした時もあった。だから会議をする時なんかでも、うまく言えなかった時とか、おかしなことを言ってしまったなんて思う時は自分を責めてしまう。なんと駄目な人間なんだろうと思ってしまう。そしてこんな自分のことをみんな見下しているんだろうななんて勘ぐる。見損なわれてしまったかもなんて心配する。こんな駄目な人間俺くらいだろうななんて自分を責める。ひとりぼっちでさびしい気持ちになる。
でも本当はキリストはそんな時にも私たちの心にいてくれている。自分だけどうしてこんなんだろうと思う時もキリストは私たちの心の中にいてくれている。だからどんな時でも私たちはひとりぼっちになることはない。
愛に立つ
心の内にキリストが住むとどうなるか。いつも神さま神さま、って言うような人間になるというわけではない。何事にも動じない人間になるわけでもない。病気をしない人間になるわけでもない。恐れや不安や迷いがない人間になるわけでもない。愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となる。
心の内にキリストが住むことで愛する者となるというのだ。清い人間になるとか、信仰深い人間になるとか、強い人間になるのではなく愛する者となるというのだ。そしてそれはキリストの愛の大きさを知り、神の豊かさに満たされることでそうなるのだろう。つまりキリストの愛とか神の豊かさにどっぷりと浸かることが大事なのだろう。それはキリストの愛という湯船にどっぷりと浸かるようなことなのだろう。
【ぼくのミックスジュース】
作詞者 五味太郎 作曲者 渋谷 毅
おはようさんの おおごえと
キラキラキラの おひさまと
それに ゆべの こわい ゆめ
みんな ミキサーに ぶちこんで
あさは ミックスジュース
ミックスジュース ミックスジュース
こいつを ぐぐっと のみほせば
きょうは いいこと あるかもね
ともだち なかよし うたごえと
スカッと はれた おおぞらと
それに けんかの べっそかき
みんな ミキサーに ぶちこんで
ひるは ミックスジュース
ミックスジュース ミックスジュース
こいつを ぐぐっと のみほせば
なんでも かんでも いいちょうし
あのね それでねの おはなしと
ほんわか おふろの いいきもちと
それに ひざこぞうの すりきずを
みんな ミキサーに ぶちこんで
よるは ミックスジュース
ミックスジュース ミックスジュース
こいつを ぐぐっと のみほせば
あとは ぐっすり ゆめの なか
自分の罪も間違いもだらしなさも、自分を責める気持ちも嘆き気持ちも全部ひっかかえてキリストの愛という湯船にどっぷりと浸かることが大切だ。キリストは私たちをまるごとすべてを抱え込んでくれる。そこで私たちは愛する者とされていくのだろう。