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礼拝メッセージより



「傷ついた葦」 2007年1月21日 
聖書:イザヤ書 42章1-7節


 紀元前587年にユダヤ人の多くはバビロンへ連れて行かれてしまった。その後バビロニアはペルシャという国に滅ぼされ、紀元前538年にペルシャの王キュロスはバビロンで補囚されていた民に自分の国へ帰ってもよいという許可を出した。ユダヤ人の補囚は約50年間続いた。


 傷だらけのユダヤ人たち。心も暗くなってしまっているユダヤ人たち。そんなユダヤ人たちの傷ついた心をさらにくじくような事をしない、だんだん暗くなっていく心を消してしまうことはない、そんな僕、神の僕を見よ、と神はいう。
 傷ついている者に対して、疲れ果てて希望を持てない者に対して、神はそんな苦しさや弱さをよく分かる方を送ると言われるのだ。
 そしてその僕とはイエス・キリストのことである、この言葉に当てはまるのはイエス・キリストにおいて外にないと私たちは信じている。

 ユダヤ人達はきっと絶望していた。自分達が間違っていた、そのために国もなくなった。もう希望はないと思っていたのだろう。弱いだらしない自分達はもうどうしようもないと思っていたのだろう。
 しかし国が滅ぼされ、指導者たちがバビロンに連れて行かれるという苦しみを通して、ユダヤ人たちは自分達の信仰を顧みた。苦難を通して、失敗を通して自分のことを真剣に反省した。こういうことになったのは自分達が主なる神に従ってこなかったから、神の言葉を真剣に聞いて生きてこなかったからであると分かった。何が違っていたのか、何が間違いだったのかに気づいた時から彼らには希望が生まれたのだろう。第二イザヤは彼らに主の僕を立てるという神の約束を告げる。
 主の僕は傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこともなく、裁きを導き出して、確かなものとする、という。この裁きとは、ミシュパートという言葉で公義とか道と訳している聖書もあるそうだ。裁きというよりも定めという感じかもしれない。
 弱く傷ついた者も傷つき果てることもなく、燃え尽きそうな者も暗くなることはないという。そのために主の僕を立てると神は言うのだ。しかしその僕は強い大きな力を持つ者ではない。力によって周りを制圧するような方ではない。そうではなく、小さく力のない私たちに寄り添う方だ。
マタイによる福音書
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
 この主の僕とはイエスのことだろう。いつまでもどこまでも私たちに寄り添ってくださる、神はそんな仕方で私たちを支えてくれている。
 弱くてもいい、小さくてもいい、あなたを私は支える、どんな傷ついていてもあなたを倒れさせはしない、どんなに小さくてもあなたの火を消すことはしない。神はそう言われているのではないか。

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