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礼拝メッセージより
「福音」 2007年1月14日
聖書:コロサイの信徒への手紙 1章3-8節
いい知らせ
福音とはよい知らせ。もともとは「勝利の知らせの宣言」なのだそうだ。聖書の中にも4つの福音書がある。最初は「ふくおんしょ」かと思ってたら「ふくいんしょ」だった。聖書というのは福音が書かれたもの、よい知らせが書かれたものなのだ。
その聖書の福音とは何なのか。コリントの信徒への手紙一15章の所でパウロはこんなことを書いている。
15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
つまりキリストが私たちの罪のために死に、葬られ、復活したことということだ。それが福音なのだとパウロは言う。
教会
結局教会はそのことを信じて伝えてきた。コロサイの教会の人たちはそのことをエパフラスから学んでと書かれている。エパフラスはコロサイ教会の指導者で、コロサイ教会を作った人なのではないかと考えている学者もいるそうだ。
コロサイの教会の人たちはエパフラスから学んできた。学ぶとは言っても学校で教科書を使って教えて貰うような学びとは違うだろう。聖書をまるで教科書のように教えて貰って、それではどれだけ覚えたかテストします、80点以上は合格、合格者には天国行きの切符をあげますというのとは違う。本当はそっちの方が楽かもしれないが。
そもそもどうして神を信じるのだろうか。
昔モロッコにしばらくいた日本人の話しを聞いたことがある。モロッコではイスラム教の人が多いそうだが、日常の会話の中に神がよく出てくるということだった。何時に待ち合わせというような約束をする時にも、神の思し召しならば、神が許されるなら、イスラムだからアラーの思し召しならば、というようなことを言うそうだ。日本から行った人たちにとっては約束を破った時の言い訳にも聞こえるみたいで、確かに言い訳にも仕えると思う。では今日の6時に会いましょう、って約束する時に、分かりました、神の思し召しならばそうしましょう、って聞くと大丈夫かなと心配になってきそうだ。神を使って責任を神に押しつけているように聞こえなくもない。
けれどもモロッコにいたその人は、神の思し召しがなければ行けないと信じているのかもしれない、と思うようになったと言っていた。神を信じない人間がいることが信じられない、というようなことを言う外国人もいる。彼らにとっては無宗教ということの方が信じられないみたいだ。神がいるから人間がいるということ、人間は神に造られたものというような考えなのだと思う。だから神なしに人間は存在しないという気持ちのようだ。
でも日本の場合、創造主という意識はあまりないと思う。神とは宇宙の法則の別名だと思うという人もいる。人間が作り出したものだと考えている人もいるようだ。正月には多くの人が初詣に行くけれども、あなたの宗教はって聞くと70%くらいの人が無宗教だと答えるそうだ。初詣もクリスマスと同じようなひとつのイベントなのかもしれないけれど、こんな日本にいながら創造主を信じる、聖書の神を信じるのはどうしてなのだろうか。
やっぱり聖書をしっかりと講義してくれる人がいたからではなく、神を信じることを見せてくれた人がいたからだろうと思う。聖書を事細かく教えてくれた人がいたからではなく、神を信じて生きている人がいたから、私たちはこの神を知りたいと思い、信じたいと思うようになったのだろうと思う。
その人の中に何かを見つけたというか感じたから、どういうことかと知りたくなったというようなことなんだろうと思う。
そんな風にありのままの姿を見せることが大事なのだと思う。日本では教会というのは立派な清い人の集まりだと思っている人が大勢いるみたい。綺麗すぎるところには命がない。北海道に摩周湖という湖がある。すごく綺麗な湖で何十メートルも下まで見える。でも生き物はほとんどいない。いないから綺麗であるという面もあるが。
教会が立派で清い人の集まりだと思っているから行きづらいという人が多いようだ。自分が行くところではないと思っているらしい。
なんでそんな風に思っているのか、間違っていると思う。けれどもそれは教会が立派な清い面ばかりを見せつけている所為なのではないかと思う。
神を信じてこんないいことがありました、病気が治りました、学校に合格しました、仕事がうまくいきました、人間関係がよくなりました、問題が解決しました、神さまを讃美しましょうなんてことを聞くことはあっても、こんなことで苦しんでいる、こんなことに悩んでいる、人が憎い、を赦せないで苦しい、なんてことは全然聞かない。教会でも下手に話すと、そんなこと言うもんではありません、人を憎んではいけません、赦しなさい、なんてすぐに言われてしまいそうな所がある。
でも人生っていいことばかりじゃない。神を信じたらいいことばかりになるわけでもない。自分の願いどおりになるわけではない。願いどおりになるから神を信じているわけではない。
苦しみながら悩みながら私たちは生きている。でもこんな私を神は愛してくれているから、大切に思ってくれているから信じている。こんな私といつも共にいてくれているからそこにすがって生きている。私のすべてを見えないところで支えてくれているから、この神にすがって生きている。それが私たちの信仰なのではないかと思う。だからそんな姿を見せていけばいいのだろうと思う。
苦しい気持ち、悲しい気持ち、憎い気持ち、そんな心の奥にある気持ちを出せる場所をあることは何と幸せなことかと思う。神さまは私たちのそんな気持ちを、本当の気持ちを全部受けとめてくれている。ありのままの私たちを全部受けとめてくれている。私たちはそんな風に愛されている。それこそが福音なんだと思う。教会は神がそうしてくれているように、お互いのありのままを受けとめ合い、祈り合うところなんだと思う。福音はきっとそうやって伝えられてきたのだろう。