戦争と私


 私は6人兄姉の末っ子として生まれ3歳で父と死別しました。でも多くの兄姉に囲まれていましたから淋しいと思った事はありませんでした。
 小学3年からナザレン教会の教会学校に行っていました。一番下の兄が先に教会へ行っていたのでしょう。日曜日には私を連れて遊びに行くと言っては、教会へ連れて行ってくれました。何も判らない私でしたが教会の方々の優しさが身に沁みて教会へ行くのが楽しみでした。
 女学校を卒業する頃には、教会へなんか行けない状態になりました。戦争の始まりです。熱心に連れて行ってくれた兄も結婚を前に亡くなりました。
 その後私は海軍軍人と23歳で結婚しました。24歳半ばで母となり、日々激しい戦況を気にしながら、いつも出入する主人を迎えるたびに、「これが最後になるかもしれない」と思いつつ笑顔で送りました。無論、主人には判っている事ですが何一つ口にせず明るく元気に出かけて行きました。
  【昭和19年12月6日レイテ湾にて戦死】
 くる日が来ました。戦死の公報です。
 呉市の大空襲で住む家も箸1本も無い中で主人の戦死の公報を手に「これからどうして生きて行く事が出来るのだろうか?」と不安に思いました。が、「私には子供と母がいる」その事がこれから家長として頑張れる決心につながりました。そして生涯務められる公務員となり、親切な職場の方々にも恵まれました。
 娘には淋しい思いをさせまいと毎日、町に出かけました。世の中も落ち着き、復員されて楽しそうに歩いている家族姿も見られました。そんなある日の事、ポツリと娘が言いました。「私のお父さんはいつ帰るの?」と。私はハッとしました。娘を楽しませるために連れ出していた事が結果として逆だったのです。戦死のことはあまりにも可哀想で言えませんでした。でも後になって判りました。それは神様が娘の口を通して語りかけてくれたと言う事。間違った方法で娘を慰めようとしている愚かな私に、愛を持って語りかけてくださった事を。そして心から感謝し涙が溢れました。
 それから長い間遠ざかっていた教会へも訪れる事が出来ました。娘も日曜日を楽しみに待って喜んで教会に行こうと言いました。また神様は愚かで弱い私の為に、母を私の助け手として家において下さった事に感謝しました。
  "あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ"伝道の書12・1
 この聖句(聖書の中の言葉)通り、若い日に神様を覚えて、生きて行く自分の道標となってくださった事を思い、娘にも教会生活が続けられるようにと祈り続け、そして答え導いて下さった神さまに今、感謝しています。

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