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礼拝メッセージより
「礼拝から始まる」 2006年3月5日
聖書:使徒言行録 20章7-12節
初代教会
使徒言行録20章では週の初めの日にパンを裂くために集まっていたと書かれている。週の初めの日は日曜日のことで、パンを裂くとは主の晩餐のことらしい。つまりこのころからキリスト教会は安息日である土曜日ではなく、主イエスが甦った日、つまり主日、日曜日に礼拝をしていたらしい。そして礼拝の中心はパン裂き、主の晩餐と話し、説教だったようだ。イエスの苦難、十字架、そして復活を記念することが礼拝だったということだろう。そしてその中でパウロは随分長い話しをしていたみたいだ。
その時エウティコという若者が窓に腰掛けていたけれども、パウロの話しが長いので寝てしまって三階から落ちて死んでしまったという。けれどもパウロは抱きかかえて、「騒ぐな。まだ生きている」と言った。本当に死んでしまったのか、死んだように見えただけなのか、よくわからないけれども、若者はどうにか大丈夫だったようだ。若者がなぜ眠くなったのか、昼間はずっと働いていて仕事帰りにパン裂き、つまり礼拝にきたということかもしれない。そのために疲れから眠ってしまったのかも。
兎に角若者は三階から落ちたけれども助かったわけだ。そしてみんなは主の晩餐をし、パウロは話しを続けたというのだ。次の日に出発するということで別れの説教ということだったようで、それで長くなったらしい。
聖書で日曜日にパン裂き、つまり礼拝をしていたと書いているのはここだけだそうだ。
礼拝
なんで教会に来ているんだろう。何で日曜日の朝早くから礼拝に来ているのだろう。長いこと教会に来ていると何となく義務みたいになってしまうことがある。何できているのか、何しに来ているのか、何にも分からなくなっているのに、休んだら何を言われるか分からないから心配で、あるいは何となく落ち着かなくて来ているなんてこともある。時にはそう思うこともあるだろうけれども、ずっとそんな状態で、つまり礼拝にきても嬉しくも楽しくもなく心休まるわけでもない、なんてことだとしたら軽くやばい?、いやかなりやばい状態だと思う。
ため息
ある教会の青年が下宿のおばちゃんから、教会に行くのも大変だねえと言われたそうだ。どうしてそんなことを言うのかと思ったら、その青年は日曜日に教会から帰って来た時に、いつも下宿の玄関でため息をついていると言われたそうだ。自分では気付いていなかったけれど、そう言われてみると実際いつもそうだったらしい。
日曜日には教会学校や青年会を始めいろいろな奉仕をしていた。そしてその奉仕のことで頭がいっぱいで、礼拝の時にもそんなことをいろいろ考えるようになっていた。礼拝を楽しみにし、喜んで行くという気持ちも次第になくなっていっていた。下宿のおばちゃんからため息のことを聞いてそのことに気がついたそうだ。
僕自身も礼拝には来ていても早く礼拝を終わらないか、終わったらみんなであそこへ行って遊ぼう、早く帰ってあのテレビを見よう、なんてことを考えているなんてことがよくあった。礼拝そのものが喜びというよりも、ただ習慣としてだったり、あるいは義務としてだったり、休むと何か悪いことをしたような気持ちになるから行っている、なんてこともあった。最近は仕事だから仕方なくってとこもある。でもそれって何かおかしいなと思う。礼拝ってそんなもんじゃないんじゃないのと思う。
ガラテヤの信徒人への手紙
5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
自由を得させるためにキリストは私たちを解放してくださった。なのに教会がその自由を取り去ってしまっているとしたら、自由にされたものを教会が縛り付けているとしたらおかしなことだ。
教会はこうあるべきです、牧師はこうあるべきです、教会員はこうあるべきです、そしてこれをしなければいけない、あれをしなければいけない、となって、いろんなことを外から強制されるとどんどん苦しくなるばかりだ。苦しくても身体にむち打ってやり遂げるのが立派な信仰者だ、なんて見方もあるみたいだが何か違うんじゃないのと思う。修行して自分をうちたたいて立派な信仰者になるってのはキリスト教じゃないだろう。私たちは神に愛され自由にされた、だからキリストに従いキリストに聞きキリストに仕えるのだ。愛されたから愛していくのだ。愛されている喜びがあるからそれを伝えていく、伝道していくのだ。伝道しなければってしかめっ面していても誰も教会に来ない。一回来てももう来なくなるだろう。
パン屋さん(メールマガジン「KU!Re? 呉楽部」より)
メールマガジンに、まちおこしなどに関わっている人の話しが載っていた。
【ヨソの新規出店で私はとっても気になっているお店があります。五日市にあるパン屋さんなのですが、立地条件は最悪、調理場と売り場との仕切りもない。内装もさほどお金かけてないし、値段が激安というわけでもない。でも朝7時の開店時間からほとんどお客さんが途切れることなく、店内レジ前はいつも行列。しかも「アイドルタイム」といわれるお店がヒマな午後2時前後でも、なぜかこの店は主婦でごった返しています。
なぜ集まるのか。それは「居心地の良さ」。決してインテリアにこだわった癒しの空間という意味ではないんですよ。この居心地の良さは、この店が大好きで活き活きと仕事をしている店員さんたちから伝わってくるんです。オバタリアンの領域に入りつつあるこの私、この手の店を見ると思わず本音で質問してしまいます。
「なんでここで働くのが楽しいの?」以前他の飲食店で質問したときは、「この店の壁、アルバイトみんなで塗ったんですよ」、「商品のPOP(商品紹介カードみたいなもの)はアルバイトが考えるんです」、たいていこんな返答でした。つまりアルバイトも店作りに積極的に参加できるチャンスがあるっていうこと。さて、パン屋さんの話に戻りますが、じゃあここは何が要因か。バイトの女子いわく、「お客さんが喜んでくれるから、私たちも嬉しいんです」うーん、期待はずれの当たり前の返事でした。
でもね、明らかなのは、どんな豪勢な店づくりよりもモノ売りとして誇れる商品を出していれば、寄ってくる人たちも自然と応援団になってくれるんですよ。特にお客様はしっかりと見ています。一番身近にいるアルバイトさんたちがこの店のファンかどうかを。】
教会に来る人はそこに集まってくる人が教会のファンかどうかを見ている。嬉しくて楽しくて礼拝に来ているかどうかを見ている。楽しくする方法のひとつは、パン屋さんの例からいうと教会作りに関わっていくということだろう。自分の賜物を教会に来る誰かのために活かしていく、ということだろう。ずっとお客さんだと楽しくならないみたいだ。
最近は元気も喜びもない教会が多いそうだ。そんな所でいくら伝道伝道っていってもそんな教会に人は集まってこないだろう。伝道は教会員がするものだというのはきっとその通りだと思う。
先ずは何よりもキリストに愛されていることを、罪を赦されていることをしっかりと聞いて、そのことを喜ぼう。礼拝に集まることを喜ぼう。全てはそこから始まる。そんな教会には自然に人が集まってくるみたいだ。
そんな教会をみんなで作っていこう。