前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「仕える者に」 2006年2月26日
聖書:マタイによる福音書 23章1-12節
先生
世の中には先生がいっぱいいる。学校の先生や何か指導してくれる師匠を先生というのは分かる気がする。でも国会議員がお互いを○○先生なんて呼ぶ合ってるのを見てるととても奇異な感じがする。教師とか、敬っている相手に向かって先生というのは分かるけれども、余計な所で先生がはびこっているように思うのは僕がひねくれているからなのだろうか。
牧師もよく先生と呼ばれる人種だ。牧師になりたての頃、30年位牧師をしている人から浅海先生って言われたことがあった。正直言って背中がぞくっとしたような感じがした。先生先生言い過ぎだよ、と思う。そんなことばかり言ってるから牧師は偉いんだ、他の信徒とは違うんだなんて思ってしまうんじゃないかと思う。特にバプテストは牧師が信徒より偉いとか身分が上だなんてことは何もないんだし。アメリカでは牧師も名前で、ファーストネームで呼ぶなんて聞いたことがあるけど、それはいいなって思う。
言行不一致
聖書の中にも先生と呼ばれたがる人たちがいたことが書かれている。それが律法学者とファリサイ派の人たちだ。イエスは度々律法学者とファリサイ派を非難している。今日もそのうちのひとつ。今日の所では、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし彼らの行いは見倣ってはならないというのだ。
彼らが言っていることは正しいからその通りにしなさい、でもやっていることを真似しちゃいかんということだ。律法学者はその名の通り律法の学者で律法のことを、つまり聖書のことをよく知っていたのだろう。またファリサイ派はその律法を厳格に守ろうと言っていた一派だった。彼らが言っていることとはつまり律法を守って生きようということだった。聖書から聞いてそのことを守って生きようと言っていた、そしてその彼らの言うことはその通りに行いなさい、とイエスは言うのだ。
ところがそうやって律法を守って生きようと言っている彼らのやっていることは見倣うな、真似するなという。彼らは言っていることとやっていることが違ってしまっているということだろう。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない、なんて言われている。律法ではこう言っている、律法にはこう書いている、だからお前達はこうしなければいけないのだ、この時にはこうして、こんな時にはこうしないといけない、というような細かな決まりが一杯あったそうだ。律法を守るためということで細かな決まりを一杯作っていたらしい。613の掟があって、248の「せねばならない」という命令があって、365の「してはならない」という禁止があったそうだ。そんな命令を守らないといけないと民衆に教えていたらしい。
そして自分達は聖句の入った小箱、これは聖書の言葉を書いた皮の紙をいれた小さな箱を左腕か額につけて、いつも聖書の言葉を、神の言葉を心に留めておくという習慣があったそうだが、その箱を大きくしていた。また衣服の房、これは衣服の四隅に房を縫いつけて、それを見て主の命令を思い起こして守るためのものだったが、その房を長くしていた。また宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、広場で挨拶されたり、先生と呼ばれることを好んでいたというのだ。そしてそうするのは、すべて人に見せるためにしているというのだ。聖句の箱を大きくしたり、服の房を長くして、私はこんなに律法を大事にしているんだ、と周りの人に見せつけている。上座や上席にいることで、また先生先生と呼ばれることで、自分が他の凡人とは違うんだ、自分は偉いんだということを見せつけているというのだ。
律法学者やファリサイ派の人たちは、律法が大事だから、律法をいつも忘れないために、聖句の小箱を大きくしたり、服の房を長くしているのではなくて、周りから律法を大事にしていると思われたいためにそんな振りをしている、いつも周りから尊敬される立派な人間だと思われたいために、上座にいたり、先生と呼ばれることを好んでいる、とイエスは言うのだ。
本当は律法を大事にしているんではなくて律法を大事にしている振りをしているだけだったようだ。律法が大事だ、神の言葉が大事だ、と言っているけれど、実は神の言葉よりもそうやって立派なことを語っている自分自身が大事にしている、そしてそんな自分をみんなから誉め称えられること、あの人は立派だと言って貰うこと、それを何よりも大事にしている、神の言葉よりも自分を誉めて貰うことを大事にしている、イエスはそう言っているようだ。
見倣うな
イエスはそんな律法学者やファリサイ派の人たちを見倣うな、と言うのだ。
実際今の教会はどうなのだろうか。見倣っているのか、いないのか。
一番見倣っているのが牧師なのかもしれない。いつもそれらしい服を着て、みんなから先生と呼ばれることを喜んで、もっともらしい話しをして、長いお祈りをして、信仰深いような振りをしている。どうして信じないの、どうして祈らないの、どうしてそんな弱音を吐くの、なんて自分は神の代理人にでもなったかのようなことを言っている。
牧師だけじゃなくて教会全体がそんなところがあるのかもしれない。教会は立派な信仰深い人が行くところになってしまっているのかもしれないと思う。教会に来て、こういうことに苦しんでいる、こんなことを悩んでいる、なんてことを話してもなかなか聞いてもらないという話しをよく聞く。そんなことするから、こうしないから、信仰が足りない、祈りが足りない、なんてことを言われるらしい。世の中はそんなものだ、苦しいのはあなただけじゃない、何泣き言をいってるの、なんてこともあるらしい。教会に来て話しをしても、結局自分が悪いんだと自分を責めばかりで苦しくなるか、もう来なくなるかどっちかってことが多いらしい。
イエスは、先生は一人、父はひとり、教師はひとりだと言った。つまり神はひとつ、人間は人間、私たちは決して神ではないのだと言っているのだと思う。
自分の駄目さにはふたをしたがるくせに、人の駄目さを見つけると一所懸命に正したくなってしまうのが私たちだ。それは間違っている、そんなことでは駄目だ、そんなことはやめなさい、もっとこうしなさい、もっと前向きに生きなさい、そんなこと気にしなさんな、なんて簡単に言ってしまう。言われて出来るくらいならとっくにそうしているし悩むこともないわけだ。なのに何だか神にでもなったかのようにああしろこうしろと言ってしまう。
教会は、私たちは間違いを神となって、あるいは神の代わりに、神の代理となって、つまり教師や先生となって人を裁き人を正すところではない。そうではなく同じ間違いを持った人間、同じ罪を持った人間としてと神に聞いていく所なのだと思う。
下へ
私たちの教師であり先生であるキリスト自身がそうだった。
イエスの目は小さく弱い人にむけられていく。存在する意義があるのかないのか、それさえもわからないような人へむけられている。苦しみ、悩み、悲しみを背負って生きている人へと目を注いでいる。低い方へ低い方へと。それは決してかっこいいことではない。苦しみ悲しみを自分が肩代わりすること、あるいはいっしょに重荷を背負おうとすることだろう。それは相当しんどい生き方だ。人を下から支えることなのだ。自分は安全なところにいて「早くこっちへ来い」というようなこととはちがうのだ。
私たちの先生であるイエスはそうやって私たちのところへ来てくれた。そういうふうに私たちを愛してくれている。私たちが悩むときも苦しむときも嘆くときも、イエスは私たちを突き放すのではなく、高見の見物をするのではなく、全てを受け止めてすぐ隣りにいつもいてくれている。このイエスに倣う者が教会では一番偉い者なのだ。イエスのように仕える者が一番偉いのだ。
だから教会で一番偉いのは、偉そうなこと言っている牧師ではなく、主よ主よとかアーメンアーメンと言って信仰深そうな振りをして人でもない。つらく苦しい思いをしている人に寄り添っている人、黙々と掃除したり茶の用意したり、見えないところで教会の雑用をして支えている人が一番偉いのだ。
信仰深い振りをすることはない。信じられないときには信じられないと言えばいい。悩むときは悩んでいると言えばいい。悲しい時には泣けばいい。苦しいときにはしかめっ面すればいい。神さまはきっと受け止めてくれる。そして誰かが苦しんでいるときには、その誰かに寄り添っていきたい。
イエスは、神を愛し隣人を愛しなさいと言った。それこそが律法だ、それこそが聖書だと。愛することが一番大事なのだ。イエスがそうであったように。