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礼拝メッセージより
説教題:「イエスにつながる」 2005年2月27日
聖書:ヨハネによる福音書 15章1-17節
ぶどう
イスラエルは昔からぶどうにたとえられてきた。旧約聖書でもぶどうにたとえられている。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。」(イザヤ5:1)。「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えた」(エレミヤ2:21)。「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。」(ホセア10:1)。ぶどうはイスラエル民族の象徴だった。
けれどもホセア書で続けて読むと、「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。」と言われている。エレミヤも「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えたのに/どうして、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」と言われ、イザヤでも、「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と言われている。
堕落してどうしようもなくなったぶどう、あるいはぶどう畑として登場する。イスラエルは神から豊かな実を結ぶぶどうとして期待されていたのに、そこで結んだ実は偽りのぶどうの実だったというのだ。そこで育ったのは偽りのぶどうの木だったというのだ。
ぶどうはパレスチナ全域で栽培されていた。そして良い実を得るためにはとても手間のかかる植物なのだそうだ。ぶどうの木はすごい勢いで成長するので、徹底的に刈り込む必要があるそうだ。そしてぶどうの若木は植えられてからさん3年間は実を結ぶことをゆるされない。よりよく生育するために毎年徹底的に切り落とされてしまう。成熟した木は、12月から1月にかけて刈り込まれる。実のなる枝と実のならない枝とがあって、実のならない枝は木の力を浪費させないために徹底的に容赦なく切り落とされる。ぶどうはこのように切り込みをしないと収穫を得ることができない。
またぶどうの木は柔らかすぎて何にも利用できない。切り落とされた枝は燃やしてしまうしかなかった。
まことのぶどうの木
イエスは自分のことを、わたしはまことのぶどうの木である、という。そして私たちはイエスにつながることで実を結ぶ、そんなぶどうの枝であるというのだ。ぶどうの枝がぶどうの木に繋がっていなければ実をむすぶことはできるわけがない。枝は木に繋がることで水分や栄養を貰っている。繋がっていなければ生きていくこともできない。そんなことは説明する必要もない、誰もが知っていることだ。大前提だ。
そして私たちとイエスとの関係は、そんな枝と木の関係と同じであるというのだ。要するに、つながっていることが大前提、つながっているから生きていける、つながっているから実を結ぶことができる、離れてどうやって生きていこうなんてことも考えられないようなそんな関係なのだ。
私たちはイエスに繋がることでイエスの言葉をもらう。枝が水分や栄養を貰い続けて実を結ぶように、私たちもイエスの言葉を貰い続けることで生き、実を結ぶことができるのだ。
逆に言うと、私たちは自分の力だけで生きていけるような者ではないということだ。なのにしばしば私たちは自分の力だけで生きていけるかのように思ってしまうことがある。力を持ち、権力を持ち、名声を持ち、お金を持つと、自分が何でもできるかのように思い、自分の力だけで何でも出来てしまうかのように思ってしまう。何もかも自分の力で解決していけると思ってしまう。これだけの能力とお金を溜め込んだからもう木につながっていなくても大丈夫と思ってしまうようなことだ。でも枝は木から離れてはやっぱり生きてはいけない。
私たちはいろんなものをいっぱい溜め込むことで安心しようとする。力や名誉やお金をいっぱい持つことで安心できると思う面がある。しかしそれは枝が一生生きていけるだけの水や栄養を溜め込もうとしているようなものだ。
断水するときには、風呂場や鍋ややかんや、いろんなものに水を溜めておかないといけない。けれども水道からいつでも水が出るならばそんなことをする必要もないし、水をがどれだけ貯めているかということを心配する必要もない。木につながっていて、絶えず貰い続けるならば自分の中に溜め込む必要はない。どれだけたまっているかと言うことを心配する必要もない。全然溜まっていなくても大丈夫なのだ。
私たちもイエスにつながっているならば、自分の中に力や名誉やお金をいっぱい溜め込む必要はない。だからこそイエスにつながっていることが大事なのだ。
喜び
そして私たちがイエスにつながるのは、イエスの喜びが私たちの内にあって、満たされるためだという。イエスにつながるのはただ私たちが生きるため、死なないためではなく、喜びに満たされるためなのだ。イエスにつながると言うことは、イエスの愛にとどまるということでもある。
子どもにとっては愛されることがとても大事であるように、私たちにとっても愛されることが必要なのだ。それがなくても死んでしまうことはないかもしれないが、喜びを持って生きていくにはやはり愛が必要なのだ。
「子どもはあなたの愛を待っているのよ。一対一のね。
あなたが働いてその子のパンを稼いできても、その子がほうっておかれるんじゃどうしようもないでしょう。
いま、ほとんどの人が、生活をもっと豊かにしようと、忙しく働いていて、子どもたちは両親とすごす時間がとても少なくなっています。
私たちが接している貧しい人たちは物質的には豊かじゃないけれども、ほんとうに子どもを愛していますよ。
その意味では、世界一の幸せ者かもしれませんね。
マザーテレサ
イエスにつながるということは、イエスに生かされていること、そして愛されていることを知ることでもある。子どもにとって親の愛を受けることが一番の幸せであるように、私たちにとっては神の愛を受けることが一番大事なことなのだ。だからこそイエスは私につながっていなさい、私のもとにとどまりなさいと言うのだ。
選び
そのためにイエスは来られた。イエスは、あなたがたが私を選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだという。きっと何の取り柄も能力もない私たちを、自分のつながらせるために、喜びを持って生きるようにさせるために、そして実を結ぶ者とするために選んでくれたのだ。面白いことにその実は枝にぶら下がってできる。イエスからもらった水と栄養と愛とが私たちの中を通って実となるということだ。枝を通らないと、私たちを通らないと実はできないということだ。そんなイエスの愛を通していく枝として生きていこう。互いに愛し合いなさい、それがイエスの命令である。