前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「足を洗うイエス」 2005年2月20日
聖書:ヨハネによる福音書 13章1-20節
足だけでなく
パレスチナの風習では、人々は祝宴に出かける前に沐浴をした。彼らは招待された人の家についたときにしなければいけないのは足を洗うことだった。当時は道を舗装しているわけでもなくて埃っぽかったし、靴も今のようなものではなく靴底に皮に紐をつけただけのようなものだったようだ。だから風呂に入ってきれいにしてから出かけても、外を歩くとすぐに足は汚れてしまったようだ。そしてこの足を洗うというのは奴隷の仕事だった。
拒否
ペトロはイエスに足を洗われることを恐れ多いことだと拒否した。そんなことをさせるわけにはいかないという思いがあった。こんなことまでしてもらってはいけない、そんなことは自分でやります、自分でやれますということなんだろう。そんな汚いところを扱わせるわけにはいかないという気持ち、あるいはそんな奴隷の仕事なんかをさせるわけにはいかないという気持ちだろうか。
しかしイエスは、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたとわたしと何の関わりもないことになる、と言うのだ。
あなたがたも
イエスは、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない」と言った。あなたがたも足を洗いなさいと言われた。イエスのしたことは奴隷の仕事だった。身分の高い人、プライドの高い人はやりたがらなかったことかもしれないが、やること自体は特別な技術がいるわけでもなく難しい仕事ではなかった。その気になれば誰でもできること、けれどもプライドばかり持っていてはできない、人に仕えること、それをしなさいということだろう。それは奉仕なんていう言葉さえも当てはまらないような、ほんのちょっとしたことなのかもしれない。寒いときに教会に早く来てヒーターの電源を入れることとか、誰かのためにお茶を入れることとか、隣の人の聖書を開いてあげることとか、そんな些細なことと思えるようなことをやっていくことなのかもしれない。
こんな話を聞いたことがある。ある教会に大学の教授をやっている人がいた。その人は聖書学者で世界的にも名前が通っているような人だった。その人は教会に来るといつも玄関でスリッパを並べていた。それを見た教会のおばちゃんが、先生そんなことしなくてもいいです、先生にそんなことさせては申し訳ないとか言ったそうな。でも教授はそんな言葉にもめげずに、自分の大事な務めだと思って続けていたそうだ。
教授なのにスリッパを並べるから偉いのではなくて、誰が並べても偉いのだ。誰かのためにちょっとしたことを、誰でもできることを、奴隷や召使いがやるようなことをやっていく、イエスはあなたもそうしなさいと言うのだ。
私にはもっと大事な奉仕がある、そんなくだらないことは他の人がやればいい、なんてふんぞり返るようなことをするんではなく、そう思う人こそ人に仕えることをやっていきなさいと言うのだ。
関係ない?
ペトロはイエスが足を洗おうとしたときに、私の足など決して洗わないでくださいと言った。そんなことしないでください、先生ともあろう人に足を洗って貰うなんて、と思ったのだろう。けれどもイエスは、足を洗わないなら、あなたとわたしと何のかかわりもないことになる、と言われた。
ペトロにはイエスに足を洗って貰う必要があった。イエスにきれいにしてもらわないといけない汚れがペトロにはあったのだ。イエスでなければぬぐえない汚れがあったのだ。その汚れを落としてもらうことでペトロはイエスとの関わりを持つというのだ。イエスに従って立派についていくことで関係を持つのではなく、汚れを落としてもらうこと、罪を赦してもらうことでイエスとの関係を持つということだ。
私たちも同じだろう。足を洗って貰うこと、自分の汚れを、自分の一番醜いところをイエスに洗ってもらうことで、私たちもイエスとの関わりを持つことができる。誰にも知られたくないような、決して誰にも話せないような自分の一番醜い過去、醜い思い、握りしめてなかなか離せないプライド、そんなものをイエスに洗って貰うことで、そんないろんな思いをイエスにぶちまけ、洗ってもらうことで、私たちもイエスとの関わりを持つことができる。
私たちは立派に生活するという、服を着ている、その上に神を信じてます、毎週礼拝に行ってますというきれいな上着を着るというそんな仕方でイエスと関わっているのではない。かっこいい上着を着てかっこよくするということでイエスと関わっているのではない。そうではなく、自分の一番内側を、一番汚い所を、一番見せたくないところをイエスに洗って貰う、きよめて貰う、赦して貰う、そんな仕方で関わっているのだ。
そうすると、イエスが言った、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならないというのは、ちょっとしたことをやっていくということと同時に、お互いの内面の汚い部分、醜い部分を聞き合っていくということでもあるのだろう。
教会でもというか、教会だからこそついついいいかっこをしてしまう面がある。神を信じているんだからそんなことを言うもんじゃありませんというようなことになりがちだ。何でも分かったような、どんなことでも立派に耐え忍んでますというような、どんな人でも受け入れてます、というような立派な信仰者面をしてしまいがちだ。
本当は苦しくて仕方ないのに、これも神さまからの試練ですからと平気な顔したり、いろんな奉仕をさせられて本当はいやなのに感謝ですなんて言ってみたりということがある。試練だろうがなんだろうが苦しいのは苦しいのだ。その苦しさを分かって貰うことでどんなに楽になるだろうか。いやなことはいやなんだから、でもそれでも誰かのために一所懸命にやっていることを分かってもらうことで力が出てくる。そんな苦しさやいやさを分かろうとしないで、クリスチャンのくせに何でそんなことを言うのか、もっとクリスチャンらしくしなさい、なんて話しになることが結構多い。そんな偉そうなことを言う人に限って自分が大変なときには苦しい苦しい、大変だ大変だと言うみたいだが。
あるいは、夫婦なんて所詮は他人だ、嫁姑なんて所詮は他人だ、なんて聞くとついつい、夫婦とはこうこうで、姑とはこういうもんで、なんてことを説教してしまいがちだ。けれども他人だといった人がどんなに苦しんでそういうことを言ったのかということまではなかなか感じれないことが多い。けれども足を洗うということはそんな苦しい思いを聞いていくということでもあるのだと思う。
クリスチャンのくせにそんなことを言うもんではない、という言い方は、先生のくせに私の足を洗うのですか、というのと似ている。イエスは先生のくせに、キリストのくせに、救い主のくせに、私たちの一番汚い、醜い思いを知ってくれる、そして洗ってくれる、罪を赦してくれるのだ。そうやって私たちと関わってくれている。イエスは私たちの綺麗なかっこいい上着として私たちと共にいるのではなく、身体の中、心の中に染みこむようにして、私たちと共にいてくれている。私たちの一番汚い部分にも内側から染みこんでくれている。 私たちには依然罪も汚れも過ちもいっぱいある、けれどもイエスが私たちを内側から支えてくれている、だからイエスに倣っていくのだ。