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礼拝メッセージより
説教題:「赦しの宣言」 2005年1月30日
聖書:ヨハネによる福音書 7章53節-8章11節
わな
イエスが神殿の境内で民衆に教えていたとき、律法学者たちとファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女を連れてきた。そしてイエスに向かって、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と質問した。律法学者たちはイエスを試して訴える口実を得るために言った、と書かれている。
彼らが言うように、旧約聖書の申命記22章22節以下のところには、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」と書かれている。姦通の罪を犯した者は石打の刑に処すというのが律法の命じているところである。あなたはどう考えるか、律法学者とファリサイ派の者たちはそうイエスに詰め寄った。
それに対して死刑に処するということに反対するならば律法に逆らい、神に逆らうことになる。神が与えた律法に反対するということは神を冒涜することになる。律法学者たちはイエスがきっと処刑するなというだろう、その時には神を冒涜する者として逆にイエスを訴えようと思っていたのだろう。
反対に処刑すべきだと言ったならば、当時は死刑執行はローマ帝国の政府の権限であって、ローマに反逆することになったそうだ。
つまり処刑するなと言えば、律法に逆らうということでユダヤの最高法院に訴え、処刑しろといえばローマ当局に訴えるという、どっちに答えても訴えることができるという風に律法学者たちはイエスに罠を仕掛けたわけだ。
律法学者たちはイエスにしつこく問い続けたという。さあ、どっちなんだ、早く答えろ、どっちだ、と迫っていたのだろう。最初指で地面に何か書いていたイエスがやっと口を開いた、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして地面に何か書き続けたという。
罪のない者が最初に石を投げなさいという衝撃的な言葉を聞いて、石を投げる者は誰もいなかった。反対に年長者から順番にそこを去っていって、イエスと捕らえられた女だけが残された。
律法学者やファリサイ派の人たちは、姦通の現場を押さえて、罪を犯しているという確実な証拠をつかんで、さあこいつをどうするんだ、この罪をどうするんだと意気込んでいた。人の罪はよく見えるし、いくらでも気軽に糾弾できる。しかしイエスは突然、じゃああんたの罪はどうなんだい?あんたに罪はないのかい?と言い出したのだ。人間てのは往々にしてこういうことをしがちである。自分のことは棚にあげてまわりの人間に対してはここがおかしい、間違っている、罪だなんてことをけっこう平気で言う。自分が責められない、自分が安全地帯にいるような時には相手をどんどん攻撃する。警察官がちょっとした犯罪を犯した人間をよってたかって袋だたきにするというようなことが時々問題になるが、自分が優位に立つと何をしでかすか分からないというのは人間誰にもあるようなことだろうと思う。だから相手を糾弾し突き刺すような思いを自分に向けられた途端、罪を持ってない者が最初に投げろと言われて、自分のことに目を向けられた途端、みんなそこにいることが出来なくなってしまったのだろう。ということは、自分が受けるとしたらとてもそこにおれないような強い思いを、みんなこの女の人に向けていたということだ。
イエスは山上の説教の中でも、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。(マタイによる福音書7:1-5)」と言っている。自分の目の中に大きな梁が入っているのに、相手の目の中におが屑が入っているのが赦せなくて、そのおが屑はやく取りなさい、私に取らせなさい、と言っているのが私たちの現実なのだ。
赦し
みんないなくなってからイエスは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と言い、女が、「主よ、だれも」と言うと、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言った。
イエスもこの女の人の罪に定めないと言った。けれども罪をどうでもいいこと、罪を犯していようがどうしようがどうでもいいと言った訳ではない。わたしも罪に定めない、しかしもう罪を犯してはならない、とも言うのだ。罪は罪である。罪人は罪人である。イエスは、わたしはあなたを罪に定めない、その罪を赦す、だからもう罪を赦された者として、罪を犯さない生き方をしなさいと言ったのだ。
イエスは罪をうやむやにするわけではない。罪に悩むもの、罪を責められるものに対して、そんなこともう気にしないで元気にやっていこうと言っているのではない。罪の重荷に苦しんでいる者にとっては、気にするななんて言われても、そんな出来もしないこと言わないでくれ、ということになるだろうともう。戦争で敵を殺したことでいつまでも自分を責めている人がいることも聞いたことがある。そんな人に、そんな昔のこともう気にするななんて言っても、それが出来ないから苦しいのだと言われるのが関の山だ。
あるいは、交通事故を起こしてそのまま逃げてしまうなんてことがあるが、逃げている間というのは、いつ捕まるか、いつみんなに知られるかということで全然生きた心地もしないのではないかと思う。犯罪を犯して逃げている人が、警察に捕まることでほっとするという話しも聞くが、そういう人は自分のしでかしたことに決着をつけないことには落ち着かないのだろうと思う。
イエスはあなたを罪に定めない、という。私たちを裁くべきその張本人が、あなたを罪に定めない、あなたを赦すというのだ。罪は罪である、それをうやむやにはしない、しかしあなたのその罪を赦す、そういう仕方でイエスはこの女の人と関わっている。その罪を赦されることで、この女の人は新しい生き方を始めることができるのだと思う。だからこそイエスは、これからはもう罪を犯してはならないと言ったのだ。
イエスは、あなたの罪はわたしが背負う、だからあなたを罪に定めない、そうやってあなたを赦す、だから赦された者として生きなさい、赦された者として新しい生き方を始めなさい、そう言っているのだ。