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礼拝メッセージより
説教題:「出会い」 2005年1月23日
聖書:ヨハネによる福音書 4章1-42節
サマリア
ユダヤからガリラヤへ向かう途中。通常ユダヤ人は回り道をしてサマリアを通らない。イエスに従う弟子が多くなることをファリサイ派が知ったということでイエスは急いでガリラヤへ向かっていたのかも。最短距離を通って。そうするとサマリアを通らねばならない。
ユダヤ人とサマリア人の対立は何百年も昔からのことだった。紀元前722年、当時南北に分かれていた内の北イスラエルはアッシリアによって滅亡させられそのことからいろんな民族が混じるようになった。南のユダも後に滅ぼされるが、バビロン補囚後に国を立てなおす際に、民族の血の純潔を守ることを再建の原理とした。そのためユダヤ人はサマリア人をエルサレム神殿に受け入れず、これに対抗してサマリア人はゲリジム山に独自の神殿を建設し、モーセ五書のみを独自に編纂して対立を深めた。その後もアレクサンドロス大王によってマケドニア人がサマリアに殖民させたために、ユダヤ人は余計にサマリアを蔑視するようになった。そんなことからユダヤ人とサマリア人は何百年もの間ずっと対立していた。そのためユダや人たちは旅をするにもまっすぐサマリアを通れば近いのにわざわざ遠回りをしてサマリアを通らないようにしていた。
疲れ
しかしこの時イエスたちはサマリアを通る最短の道を選んでいる。ヤコブの井戸まで来た時イエスは疲れていたと書かれている。ファリサイ派の追っ手から逃れるために道を急いでいたのだろうか。このシカルという街に昼の12時ごろ来るには、前の晩遅くにエルサレムの近くを出発して休みなく歩いたと考えられる。あわてて出発し落ち延びて行く旅である。夜通し歩いたとすれば肉体的にも相当疲れていただろうが、精神的にもかなり疲れる旅だったことだろう。
頼み事
そこでイエスは丁度井戸に水をくみに来た女に水を飲ませてください、と求める。この女の人はびっくっりしてしまう。女の人は、なんでユダヤ人がサマリア人にそんなことを頼むのか、と言い返す。いつも汚らわしいというような気持ちで見ているくせに、どうしてそのサマリアの女に頼み事なんかするのか、ということだろうか。なんでこの私に頼み事をするのか、ということだろうか。
イエスは、もし水を飲ませてくれと言った者が誰なのか知っていたらあなたの方が頼んだだろう、そしてその人はあなたに生きた水を与えたであろう、なんてことを言う。あなたも頼み事をしてもいいんだと言いたいのだろうか。
この女の人は正午ごろ水を汲みに来ている。それは異常なことだそうだ。普通は朝か夕暮れに汲みに来るそうだ。彼女にはかつて五人の夫がいて今の相手は正式な夫ではない。そんなことがあるためなのだろう、彼女は誰にも会わなくていい時間に、あえて誰もいない時間を見計らって井戸に水を汲みに来ていたようだ。誰とも関わりたくないという思いを持っていたのだろう。誰に会っても、あの女はみっともない女だ、とか言われていたのかもしれない。多分彼女にとっては人間関係は煩わしいだけのことだったに違いない。誰かになにかを頼まれたり頼んだりするようなことをする気持ちはもうなくなっていたのではないか。周りの人間は自分を非難し蔑むだけの者だとして誰とも関係を持たないように心を閉ざしていたのではないか。
しかしイエスはそんな女の人に声を掛け水を求めた。彼女はイエスとの関係を持つことからイエスの与える水を求めるようになる。求められることから自分も求めるようになる。イエスとの出会いによって堅く閉ざされていた心が少しずつ解きほぐされているようだ。
礼拝
イエスとの会話によってこの女の人は礼拝についての質問をする。ユダヤ人とサマリア人の対立のある中で真実を求めようとしていたのか。自分の信ずるべきもの、自分の頼るべきものは一体どこにあるのか、自分の罪を赦し解放してくれる本当の場所はどこなのか、という問いなのか。
イエスは場所が問題ではなく、霊と真理をもって礼拝する時が来ている、という。場所にしても形式にしても私たちは外から見えることにとてもこだわる。しかしイエスは礼拝の姿勢こそが問題だと言う。あるいはとにかく形だけ礼拝に出たからいいんだ、というようなことではないということだ。出席点をもらうために礼拝に来ているわけではないのだから。そこで神と出会う、イエスと出会う、それこそが礼拝なのだ。
きっと彼女は人に言えない苦しい思いをずっと持ちつづけてきたのだろう。周りから白い目で見られていることで余計に苦しくなっていたのだろう。しかしメシアが来る時、キリストが来る時、何かが起こる、何かが変わる、変えられる、どうしてこのような来るしい思いをしないといけないのか、どうしてこんな不条理な世界に生きねばならないのか、そんなことも知らせてくれるという期待を持っていたのだろう。もしかするとただその淡い期待だけを支えに生きてきたのかもしれない。
イエスはそのキリストは私である、と言う。その後彼女はそれまで関わりを持っていなかった大勢のサマリア人のところへ出かけていくようになったことが書かれている。彼女の人生はイエスとの出会いによって変えられてしまった。
ことば
イエスと出会うことで女の人は変えられた。彼女の心は解きほぐされた。イエスとの会話の中で彼女の心は開かれていった。
私たちはどこでイエスと出会うのか。私たちはこの女の人のようにイエスと面と向かって会うことは出来ない。しかし私たちはイエスの言葉と出会うことによってイエス自身と出会っているのではないか。イエスの言葉を自分の心の中へ聞き入れることは、この女の人がイエスから聞いたと同じことだ。彼女はイエスとの出会いによって心をほぐされ解放されていった。自分の中で泉となる水をもらった。私たちもイエスに言葉を聞くことでイエスと出会い、同じ水をもらおうではないか。そして私たちも心を解きほぐされ新たな神との関係、新たな隣人との関係を持つようになろうではないか。