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礼拝メッセージより
説教題:「恵み」 2002年3月3日
聖書:マタイによる福音書 20章1-16節
報酬
普通働いた報酬ってのは、働いた分に応じてということが考えられている。働いた量か、あるいは働いた時間に換算されることがほとんどだ。1日8時間位働くというのが基本的な仕事、のように思っている。それ以上の時間だといっぱい仕事したと思い、少ないとあまり仕事をしなかったような、そんな気になることがある。
けれども必ずしもそうとは限らないこともある。1年に何億も稼ぐ人もいるが、その人がサラリーマンの何十倍も何百倍もの量の働きをしているというわけではない。1日に80時間働ける人はいないわけで、必ずしも報酬が働いた時間に対して払われるとは限らない。
若い歌手が歌を歌って、たまたまあたってものすごい額のお金を稼ぐなんてこともある。歌がいいからとかいうこともあるかもしれないが、いい歌だと必ず売れるというわけでもなく、たまたま注目されたから売れたというようなことが多いように思う。
普通の仕事でも、同じ時間働いても仕事によって報酬も違ってくる。そうすると、報酬ってのは、必ずしも仕事の量、それに費やした時間に相当する、というわけではないということになる。今お金持ちの人もあまり持ってない人もいる。お金をいっぱい稼ぐ人もいるし、そうでない人もいる。でもそれらも結構たまたまそうなっている、たまたまお金がいっぱい手に入る立場に自分が立っているという面が強いのかもしれない、と思う。
でも日本人は、この金は俺が稼いだんだ、という気持ちが強いなんてことも聞いたことがある。だから、自分が稼いだんだから自分の勝手にする、金持ちになったのも自分が努力したからそうなったんで、これは全部自分のものだから全部自分のために使う、というような人が多いらしい。人のことは言えないが。アメリカなんかでは、企業でも個人でも、持っているものはいろんなところへ、教会とかいろんな団体とかへ献金するという気持ちがあるそうだ。それが慣習となっているということもあるのかもしれないが、自分が稼いだ、ということだけではなくて、与えられたという気持ちがあるからなのかな、と想像する。自分が稼いだ、という気持ちだけならば、自分のためだけに使いたい、他の人のためには出したくないと思う。けれどもみんなで生きるための分をたまたま自分の所へ預けられた、と思えばそれは自分のためだけではなく他の人のためにも使おうと思えるだろう。案外お金はそうやってみんなで生きるために私たちのところへ預けられているのかもしれない、と思う。
恵み
実は、お金に限らず、私たちに必要なもので私たちに与えられるものっていうのは、私たちの働きに応じて与えられるとは限らない。むしろそうではないことが多い。私たちは空気がなければ生きていけないけれども、その空気は私たちが何かをしたから与えられている訳ではない。何かの報酬として、あるいは、何か私たちがいいことをしたからということで、あるいは、私たちが間違っていないから与えられるというものではない。
私たちの命そのものも、それは結局は与えられたものだ。今こうして生きていられるのも、私たちがそれなりのことをしたとか、それなりのものであったから生きながらえているというわけではない。ほとんど、たまたま生かされているに過ぎない。自分がそれなりのことをした報酬として生かされているわけではない。
生きていること自体そうやって与えられた中で生きている。働いた報酬として生きているのではなく、恵みとして生かされている。けれども、いつしか私たちは自分の働きの応じて何もかも与えられるべきだ、それが当然だと思っている節がある。それだけの働きをしてきている、という自負を持っている。
1デナリオン
聖書の中で、主人が夜明けに一日1デナリオンの約束で労働者を雇った。1デナリオンは一日の賃金。一日を生きていくための賃金。正当な報酬である。
主人は9時と12時と3時にも同じように労働者を雇い、5時からもまた雇った。誰も雇ってくれなかったという人を雇った。そして夕方になって報酬を支払う時が来ると、5時に雇われた人から順番に支払われた。その人に1デナリオン支払ったという。5時から働いて一日分の給料を支払ったというのだ。
3時の人も12時の人も9時の人もきっと1デナリオンずつ支払ったのだろう。そして夜明けから働いた人にも支払ったが、やっぱり1デナリオンだったというのだ。そこでその人たちが、朝から暑い中を働いたのに、夕方からしか働かなかった奴らとどうして同じ給料なのか、と文句を言ったというのだ。
そりゃそうだろう、という気がする。5時から働いて1デナリオンなら、夜明けからだと12デナリオンくらいになるか、と計算しても不思議ではない。この世の理屈から言えばそうなるのが普通である。時間に応じて報酬が増えるというのがこの世の習わしである。しかし天の国ではそうではない、とイエスはいうのだ。天の国では、その日雇われた者は何時に雇われてもその日一日の給料が貰えるというのだ。その日生きていくだけの者が与えられるというのだ。
先、後
後の者が先になる。
人生のどこで神に出会うのか。若い頃に出会う人と、年を重ねてから出会う人とがいる。若い頃に出会った人ほど偉いわけではない。
しかし同じなら、死ぬ直前に信じればいい、と考える。確かに、信じることで天国という別世界に行けるのならそれもいいかもしれない。しかし天国とは、そういうものではないらしい。天国を極楽と同じようなイメージに考えているならば、それは生きている間は好き放題して、死の間際に信じれば効率的かもしれない。戒めを守って、本当はしたいことも我慢して生きることが神を信じるということならば、確かに生きる間はすきなことをして死ぬ間際に天国行きの切符さえ手に入れればそれが一番うまい生き方かもしれない。神を信じるということが難行苦行、ただ辛いばかり、ただ苦しいばかり、苦しみに耐えることばかり、というのであれば、信じないでいた方がいいということになる。それで地獄に行ってしまうと大変だというのであれば、死ぬ間際に信じるというのが一番効率的な生き方ということになる。
しかしイエスのいう天の国は私たちのただ中にある。神と出会うところが天国である。自分の仕事を与えられること、自分のすべきことを与えられること、それが救いなのだ。やるべきことを与えられず、見つけられないということは辛いことだ。自分の居場所が定まらない、見つけられないことは苦しいことだ。
その日一日の賃金の当てのないままに時間を過ごしていくことの方が、暑い中とはいえ、賃金を約束された上に働くよりもきっと辛いことだろう。その中で5時まで待っているということは大変なことだっただろう。
神のもの
賃金をいくら支払おうとそれは支払う側の問題である。主人は、賃金は自分のものであり、自分のものを自分のしたいようにしているだけだ、という。気前よく与えることをどうしてねたむのか、という。
私たちが報酬だと思っているものは、実は神からの恵みなのかもしれない。神が今日一日の必要なものを与えてくれている、その中で自分の働きをしている、それが私たちの実体なのかもしれない。自分が働いたら報酬を貰える、今の社会の賃金は確かにそんな風に貰えるが、私たちが生きる上で必要なものは、私たちが働いたから貰えるのではなくて、働く以前から私たちに与えられている、働きがどうであれそれ以前に与えられている、つまり恵みなのではないか。そうやって生きることを支えられている上で私たちはそれぞれの務めを行っているということなのかもしれない、と思う。私たちは実はすべて神の恵みの中に生かされているということなのではないかと思う。
それが天の国なのだろう。
主人
一日に5回も雇いに行く。それが神の姿を現している。神の気持ちを現している。神の恵みの中に生きるようにと招いている、行く当てのない人を捜し求めて自分の所へ招く、それが神の姿なのだ。
恵み
私たちは今いろんなものを与えられていることの不思議を考えなければいけないのかもしれないと思う。そして今与えられているものにもっともっと感謝しないといけないのかもしれない。神が私たちに必要なものを備えてくださっていることを感謝していきたいと思う。そしてそうしてくれているから、安心して自分の務めを果たしていける。
神を信じるということは、地獄に行かないために難行苦行をしてでも神の掟をただ守って生きるということではなく、神に守られていることを知って安心して生きるということだ。そして神から託された務めを果たすことだ。神が守ってくれるからただ何もかもしてくれることを待っているというのではない。何もしないことはつまらないことだろう。自分がすべき務めを持っているということは嬉しいことだ。喜びは自分がそんな務めを果たすことができるということで得られるのだろう。
神の恵みを感謝し、私たちも自分に託されている務めを果たしていこう。