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礼拝メッセージの目次
礼拝メッセージより
説教題:「赦し合う」 2001年12月30日 聖書:エフェソの信徒への手紙 4章25-32節
4章11-13節に関して ある説教より
『使徒や預言者、伝道者、そして牧師・教師が与えられているのは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」ためです。ここは、とても大切です。教会で奉仕をするのは、牧師や伝道師ではなく、ひとりひとりの信者なのです。「献身者」と「平信徒」と分けている区別は非聖書的であり、すべての人が献身者なのです。ひとりひとりが、奉仕者として召されているのです!そして、どのようにキリストに自分自身をささげればよいのか、その道を示し、その道を歩むのを助けてあげるのが牧師の役目であり、「聖徒たちを整える」ことであります。
キリスト教会は、二つの極端に陥っています。一つは、今話しましたように、牧師が奉仕者であると思っていることです。牧師から何かをしてもらう、良い説教を作ってもらう、家庭訪問をしてもらう、いろいろ世話してもらう、という「お任せ」になっていることです。しかし、教会に来ているのは、自分たちが他の人々を世話することができるようになるため、主にお仕えすることができるようになるためなのです。ですから、自分は、教会において、主体的に、自発的に、能動的に動かなければいけないということにお気づきになると思います。
もう一つの極端は、「牧師はいらない」ということであります。すべてが信徒であり兄弟姉妹なのであり、互いが賜物を用い合うのであるから、牧師の指導を仰がなくてもよい、または、牧師はいらない、という考えです。しかし、これは、キリストご自身を否定することになります。牧師をお立てになったのはキリストご自身です。牧師を通してでなければ、自分が奉仕の働きのために整えられることは決してできないのです。
そして、聖徒ひとりひとりが奉仕の働きをすることによって、「キリストのからだを建て上げる」ことができます。プロテスタントの宗教改革において、「万人祭司」という言葉が生まれましたが、それを私たちは、だれをも介さずに、直接キリストのところに行ける、という意味で捉えていると思いますが、それだけでは足りないのです。私たちが互いに祭司であり、互いに仕えて祭司の務めをする、というのが万人祭司のもう一つの側面なのです。したがって、互いが互いを必要としているのです。私たちは、キリストにあってしっかりと立たなければいけません。他の人に依存することはいけません。しかし、その一方で、互いにキリストにあって建て上げていく必要があるのです。
そして、このように奉仕の働きをし、キリストのからだが建て上げられると、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とパウロは言っています。信仰の一致は、むりやり自分たちの考えを合わせることによっては与えられません。私たちが奉仕者として整えられ、成熟して、キリストの似姿に変えられていく中で、もたらされるものなのです。とかく、「何々神学」とか「どこどこのグループは…」という会話が、クリスチャンの間でなされます。しかし、それらの違いは実に表面的なものであり、信仰が成熟してくると、それらは二義的なものであることを知るようになってきます。そして、神の御子の知識において、ますます理解が与えられて、互いに自分たちは一つであることを認識しはじめるようになるのです。』
奉仕をするものと変えられていく、そこで信仰は成熟していき、信仰の一致が生まれてくるということのようだ。ある本には、教会員がお客様のままでいる限りは、本当のお客様の入る所はなくなる、というようなことを書いていた。教会員として奉仕する側になること、そこに受けることでは得られない喜びと充実感がある。そして教会員が迎える側になることで、新しいお客様がどんどん入ってくる。そしてそこで教会はいっちしていくのだろう。
偽りを捨て
「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」という。そしてそれは「わたしたちは互いに体の一部」だからそうしなさいというのだ。
偽りがない、真実である、とは、心を覆うものがなく、曲がってないで、開かれているということだそうだ。しかし私たちは自分をかばい、少しでも自分を良く見せようとして偽善的なふるまいをする。自分がしくじったときにはそれがいかに仕方のないことだったか、自分にはそれほど落ち度はなかったかというような話しにして、逆に自分がひどいことをされたりしたときには、どれほど大変なことをされたかと大げさにしたりする。自分をかばうために人はほとんど無意識にそうやっているようだ。だから同じ出来事を立場の違う人から聞くとまるで違う出来事のように思うこともある。
人はそうやって自分で自分を守ろうとする。できるだけ自分に都合のいいように、自分を責められないようにしようとする。でもそれはきっと本当の自分を知られることを恐れているからではないかと思う。本当の自分を知られることで自分が見捨てられてしまうという恐れがあるからではないかと思う。
少しのミスをひどく叱られてばかりいるならば、ミスをしてもできるだけ隠しておこうとする。間違ったときにも、ただお前が悪い、しっかりしてないからだ、根性がない、と言われるだけだとしたら、自分が悪いと思ってもなんとかして悪くないとつっぱりたくなる。
しかしミスをしたとしても間違ったとしても、そのことでしまったと思うその気持ちを少しでも分かってくれるならば、ことさらにそれを隠すこともないだろう。嘘をつくなとよく言うが、嘘をつかせる状況を作っているのは案外そう言っている周りの者かもしれない。
偽りを捨て真実を語るように、と聖書は言う。そしてそれは、私たちは互いに体の一部だからだと言うのだ。私たちは互いに体の一部だから、だから私たちはいたわり合う者同士なのだ、だから偽りを捨てようというのだ。
Tコリント12:18-28
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
教会は互いに体の一部分なのだから、各部分が互いに配慮し合っているという。一つが苦しめば共に苦しみ、一つが尊ばれれば共に喜ぶ、そんな集まりなのだ。だからこそ、偽りを捨て真実を語ろうと言うのだ。無理して背伸びしていいかっこすることはないということだ。
怒り
また怒ることがあっても、日が暮れるまで怒ったままではいけないという。
私たちは結局は自分の利害に関すること、自分の正しさを認められないことに対して、あるいは自分の面子を潰されたことに対して怒る。しかしそのまま日が暮れることがないように、というのだ。それは悪魔にすきを与えることになるというのだ。怒りを抱いて仲違いすること、それは神の御心に叶うことではなく、悪魔が望んでいることなのだそうだ。神を喜ばすことではなく、悪魔を喜ばすことだという。
分け与える
次に盗みを働いていた者は、これからは労苦して自分の手で正当な収入を得て、困っている人々に分け与えるようにという。盗みを働いていた者に対して突然そんなことを言っても、という気もするが、とにかく自分の手で正当な収入を得るように、そしてそれは困っている人々に分け与えるためにというのだ。自分や自分の家族のためにというのではなく、困っている人を助けるためにというのだ。自分だけがよければそれでいいというのではなく、隣人のためにそうしなさいという。
また言葉についても、悪い言葉を口にせず、聞く人を造り上げるのに役立つ言葉を語りなさい、という。人を誉め、弱点をかばい、悪を戒める言葉を語りなさいということだろう。実際は自分がいかに正しいか、いかに信仰深いか、いかに物知りかを語ることが多い。
結局は自分のことだけではなく、隣人にことを相手のことをしっかりと見つめていくこと、それを勧められているようだ。そして相手との関係を大事にするようにということだろう。私たちは自分のことばかりを考える癖があるらしい。自分が周りよりどれほど正しいか、どれほどりっぱか、どれほど間違ってないか、そんなことには敏感だが、周りと一緒にどのように生きるか、そんなことはあまり大事にしてきてないように思う。教会でも誰が偉いか、誰が立派か、誰が役に立っているか、そんなことにばかり注目してしまう。あの人がどれほどやっているか、という目で人は見つめても、その人のために自分に何ができるか、そんなことはあまり気にしない。
互いに評価しあい、間違いを欠点しあい、責め合うのではなく、互いに親切にし、憐れみの心で接し、神が気によってあなたがたを赦してくださったように赦し合いなさい、という。
ヨハネ8章。『8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」』この言葉はまさに私たちに語りかけられていることばだろう。